故事成語


あ行

いふうりんりん
威風凛々
凛とした風格をもつことを表す。

初登場の場面でこう評されたのは。容姿端麗な武将・趙雲である。
身長が高く、濃眉大眼のきりりとした風貌で、『三国志演技』では壮麗な戦闘の様子が描写されている。
もとは北平の武将だったが、劉備に心酔し、主君が討ち取られた後は、軍に加わることを熱望。後には劉備軍に必要不可欠な存在となっていった。



えんじゃくいずくんぞ こうこくのこころざしをしらんや
燕雀安んぞ 鴻鵠の志を知らんや
小鳥には、大きな鳥の志すところは理解できない。小さな志しか持たぬ者には、より大きな志を持った者の考えは理解できないたとえ。

董卓を暗殺する計画がバレて、曹操は陳宮に捕らえられてしまう。そこでこの言葉を発し、独自の帝王観を披露した。これに感心した陳宮は曹操を解放してしまうのだ。


▼か行

がりゅうほうすう

臥龍鳳雛
まだ世に出ていない優れた人物のこと。

劉表の客将として新野に駐屯していた劉備は、司馬徽に世の情勢について質問した。
司馬徽は答えて 「儒学者や俗人などには時局の要務はわかりません。それを識る者こそ英傑です。この辺りにもともと臥龍鳳雛といわれる者がおります」 と言った。
劉備がそれは誰かと尋ねると、司馬徽は 「諸葛孔明と龐士元です」 と答えた。

ききゅうそんぼうのとき
危急存亡の秋
危機が今まさに迫っている、切羽詰った状態を表す。

先主・劉備亡きあと、南蛮平定を終えた諸葛亮は、北伐にあたり後主 劉禅に「出師の表」を奏上した。
その出師の表の冒頭部分の言葉である。



けいろく
鶏肋
大して役には立たないが、捨てるには惜しいものの例え。

漢中で劉備と対峙していた魏王曹操は劉備を攻めあぐねていた。
これ以上の駐留は無駄とみた曹操は、帰還するつもりで「鶏肋」という布令を出した。
属官達が意味をわからずにいる中、主簿の楊修は旅支度を始めた。
理由を人にたずねられて楊修は「鶏の肋(あばら)は捨てるのはもったいないが、腹の足しになるものでもない。それを漢中にたとえられたので、(曹操が)帰還するつもりだと理解したのだ」と答えた。
演義ではこの後、楊修は油断ならないとして曹操に処刑されている。




ごかのあもう

呉下の阿蒙
いつまでたっても昔のままで、進歩のない人物のことを表す。

関羽を討ち取った名将として有名な呂蒙は、子供の頃は体の大きな乱暴者、危ないことも平気でやってのけた。
呉の軍隊でめきめきと頭角を現す呂蒙に目をつけた孫権は、彼に学問を薦める。が、いい返事が返ってこない。
孫権は 「かつての自分も多忙の中、書物を片っ端から読んだ。寝る間を惜しんで学問に取り組まなければ一流の武将とは認められない」 と、こんこんと説いた。
以降、呂蒙は熱心に努力し、学者も及ばないほどの本を読破したという。
ある時魯粛が呂蒙のもとを訪ねてきた。
呂蒙が圧倒されるほどの学識の深さを備えるまでに変貌を遂げた姿に驚き、「昔の呉下の阿蒙ではない、立派になったものだ」 と感嘆した。
「阿」 とは、小さな子供を呼ぶときに使い、「(暴れん坊の)蒙ちゃん」 というニュアンスになる。この故事から冒頭のような言葉が生まれた




事を謀るは人に在り、事を成すは天に在り
「物事を計画するのは人間だが、完成させるのは天の力」 の意味。

諸葛亮は最後の北伐において、魏から出向いてくる司馬懿親子を火攻めで追い込む。
しかし、あと一歩のところでにわかに降り出した大雨によって鎮火され、結局取り逃がしてしまう。その際、諸葛亮がもたらした言葉である。



こはちせいののうしん らんせのかんゆうなり
子は治世の能臣、乱世の姦雄なり
平和な世では君主に有能だと取り立てられ、乱世では悪知恵に長けた英雄の資質があるという意味。

高名な人物批評家である許劭が曹操を評した言葉。
並外れた機知とはかりごとに長けていた曹操は、乱世のため後者となった。とはいえ、実際は曹操は優れた文人としての一面もあり、文武両道に溢れる才能を持っていたことも事実である。


 
さ行

三顧の礼
人の上に立つ者が、仕事を頼みたい才能のある人物に最大の敬意を払って迎えることを表す。

劉備は劉表に身を寄せ、新野に駐屯していた。
そこで徐庶なる者と会見したが、彼曰く 「臥龍と例えられる諸葛孔明という者がいます。お会いになりますか」 とのこと。
劉備は 「君、連れてきてくれ」 と頼んだが、徐庶は 「この方は無理に連れてくることはできません。御自らお訪ねになるのがよろしいでしょう」 と答えた。
そこで劉備は諸葛孔明の住まいを訪ね、三度目にしてようやく面会することができた。
二人は天下について論じ、孔明の「天下三分の計」に感じ入った劉備は、懇願して孔明を軍師とした。



死せる孔明 生ける仲達を走らす
死んでもなお生前の威光が残っており、人々を畏怖させるたとえ。

五度目の北伐に出た蜀の諸葛孔明は、魏の司馬仲達との決戦を前に五丈原の陣中で病没した。
そのため蜀の楊儀らは、軍勢をまとめて退却を開始した。
司馬仲達はそれをきき追撃したが、蜀軍が反撃の様子を見せたので、 軍を退き追撃しなかった。
それを見た民衆は、 「死せる諸葛(孔明)、生ける(司馬)仲達を走らす」 と言いあった。
なお「司馬仲達が諸葛孔明をかたどった木像を見て肝を潰して逃げた」というのは、後世になってからの作り話である。



しちきんしちじゅう
七縱七禽
相手を心服させ、自分の思い通りにあしらうこと。

蜀の南方には、しばしば反乱を起こす異民族がいた。
諸葛亮は、その平定に乗り出し、敵将・孟獲を幾度となく捕らえてはその度に釈放した。
さすがの孟獲も7度目には諸葛亮に心服。以降、反乱や蜂起という事件は起きなかったという。



しょうはいはへいかのつね
勝敗は兵家の常
勝つことばかりでなく、負けることもまた軍事家のつねであり、人生には起伏はつきものである の意。

曹操に大敗を喫した劉備は、敗走の途中で自害を試みたり、臣下たちに自分のふがいなさを嘆いたりと、天下を治めようとする覇気を失い弱気になっていた。
その時に、関羽がかけた励ましの言葉。



しんし
唇歯
互いの利害関係が密接であること。

劉備の没後、蜀は魏と呉が結託する脅威を感じていた。
諸葛亮は配下の鄧芝(とうし)に考えを訊ねると、
「魏は強大すぎて攻めるのは困難。関羽を殺された恨みは水に流し、今は呉と同盟を結び、唇と歯のような親密な連合を結びましょう」
と答えた。諸葛亮は呉との同盟関係を復活させ、呉は魏との関係を断ったのだ。



じんちゅうのりょふ ばちゅうのせきと
人中の呂布 馬中の赤兎
とくに優れたもののたとえ。

呂布は袁紹軍に仕えていたことがあった。そのとき名馬・赤兎馬を操っていた呂布は、他の武将と比べても能力が優れていて、異彩を放つ存在であったという。
その姿を見た人々が「人の中に呂布がいて、馬の中に赤兎がいる」 と語り合っていたというのだ。



 ■水魚の交わり
非常に仲のよい間柄のこと。

軍師に諸葛亮を迎え入れることが出来て劉備は大満足。一日中諸葛亮と話しこみ、寝食を共にするようになった。
関羽と張飛は心中おだやかではない。
「少し惚れ込みすぎ」 と非難すると、劉備は、「私が諸葛亮を得たことは、魚が水を得たようなもの。二度と諸葛亮を敬いすぎるなどと言わないでくれ」 と2人を諭すのだった。



その長ずるところを貴び、その短なるところを忘る

孫権の人使いの上手さから生まれた言葉。
彼は優秀な人材の発掘に努め、それだけでなく、臣下の長所を認めて十分に持ち味を発揮できるように仕向け、短所には目をつぶった。
ただでさえ自然の要害に守られた呉だったが、最善の人材登用は国を長く安定させる大きな要因となった。


た行


大事を挙ぐるは 人を以って本と為す
大きな事業を成し遂げるためには、必ず人間が基礎になるという意。

劉備は曹操軍に追撃され、急いで南へと逃げていた。
だがその後を、曹操軍の略奪を恐れ、彼を慕う領民たちが列をなしてついて来るのだった。
部下たちは 「先を急ぐべきだ」 と進言するも、劉備はこの名言を発し、領民を見捨てなかった。

 

敵を呼ぶ曹操の三笑

劉備軍と呉との計略にまさかの大敗を喫した曹操。それでもやっとの思いで逃げ延びた局面で、敵の詰めの甘さをあざ笑う。
その途端、物陰から諸葛亮の命で待ち伏せしていた兵が飛び出し、曹操軍は散らされるはめに。そして、3度目の笑い声を上げると、そこで待ち伏せしていた関羽に取り囲まれ、絶体絶命の場面を迎えてしまうのだった。

 

桃園の誓い

どくしょひゃくへんぎ みずからあらわる
読書百編義 自ら見る
どんなにむずかしい本でも、何度も読んでいれば自然とわかるようになること。

熱心な魏の学者・董遇は、家が貧しく、幼い頃から稲を背にしょって売り歩きながら経書を読んでいた。
そんな彼の元へ弟子入りを志願する若者が現れる。
董遇が 「人の弟子になるよりもずっと価値がある」 と、若者に言い聞かせた言葉。


 
とば たんとうをこう
駑馬、短豆を恋う
「平凡な人は、目先の利益にありつこうとする」 という意味。

司馬懿と、曹操の甥の子である曹爽の2人は皇帝の補佐役を務めていた。
若い曹爽は、ある時から司馬懿の追い落としを企てる。司馬懿は機を見て曹爽を捕らえ、部下ともども皆殺しにしてしまう。
その曹爽の人間性を皮肉って放たれた言葉である。



な行

泣いて馬謖を斬る
規律を保つためには私情を挟まず、違反者を処分するたとえ。

「出師の表」 を奉呈した蜀の諸葛亮は、街亭で司馬
懿の率いる魏軍と対戦することになる。
街亭は蜀軍の兵糧の輸送路にあたる要衝で、諸葛亮はこの守りの指揮官に馬謖を抜擢した。
馬謖は馬良の弟で、「馬氏の五常」 としてその秀才を知られていた男。諸葛亮は厚い信頼を寄せていたものの、実践より兵法を論じることに長けているタイプで、劉備は 「馬謖の実力を買いかぶってはいけない」 と生前、諸葛亮を戒めていたのだった。
馬謖は、現地の地形を見るやいなや諸葛亮の命令に背き、南側の山上に陣取ってしまう。そのため司馬
懿に水源を断たれ、兵は渇きに苦しみ、蜀の軍は無残な敗北を遂げる。
馬謖の才能を誰よりも評価していた諸葛亮だったが、敗戦の責任として 「私情をはさむわけにはいかない」 と涙ながらに馬謖を斬ることを命じた。

は行
 はくび もっともよし
白眉 最もよし
白眉とは、数ある中から最も優れているという意味。

荊州襄陽郡の豪族・馬氏には五人の子どもがおり、兄弟皆秀才の誉れが高かった。
馬良はこの中でも特に優秀であった為、彼の眉が白かったことのちなんで 「馬氏の五常、白眉もっとも善し。」 と謳われた。


破竹の勢い

ひとをえるものはさかえ
人を得る者は昌え、人を失うものは亡う

美周朗

ひにくのたん
脾肉の嘆

 

僕、書生といえども、命を主君に受く

▼ま行

無能を示して、もってこれを安んずべし

▼ら行

りょうきんはきをえらび けんしんはあるじをえらぶ
良禽は木を択び 賢臣は主を択ぶ
自分が仕えるに値する主人を選ぶべきだという意味。

曹操が首都を許に移したとき、賊将が献帝を奪おうとしたことがあった。
その賊将の中に、曹操軍の許褚と一騎打ちで好勝負を繰り広げる男・徐晃がいたのだ。
曹操は徐晃を配下に加えるため、部下の満寵を敵陣に忍び込ませた。そこで満寵は、「良禽は木を選んで住む。賢臣は、主を選んで仕えるといいます」 と徐晃を説得したという。

良薬は口に苦し
人から注意されたりすることは不愉快なことだが、結局は自分のためになるということ。

ろうしやしん
狼子野心

ろうもうのごさん
老耄の誤算