戦術集


二虎競食の計
二人の間を引き裂いて反撃させないための策

曹操との戦いに敗れ兗州を追われた呂布。行き場をなくした彼は、劉備に助けを求め、徐州へと向かった。
この呂布の行動に、曹操は危機を募らせていく。それは劉備と呂布が力を一つにし、戦いを挑んでくるかもしれないということだ。
これに対するいい策はないかと考えていた曹操に、荀彧は次の案を提案した。

『 劉備は、徐州を手中に収めたとはいっても、まだ皇帝から正式に任命されたわけではない。
そこで、劉備を徐州牧に任命し、それと引き換えに呂布を殺すという密約を結ばせる。
成功すれば、劉備は結果的に大切な武将を失う。もし、密約がバレたとしても、呂布が劉備を殺害するはずだ。』

徐州牧というエサを使って、2人の虎を対立させる。しかし劉備は呂布殺害を拒否。計画は失敗に終わった。


駆虎の呑狼の計(くこ どろんこう のけい)
荀彧の次なる作戦は"一石二鳥”狙い!?

二虎競食の計」が失敗に終わると、荀彧は続けざまに策を出してきた。それは南郡を支配していた袁術を巻き込み、3武将の力を衰退させるというもの。
まず袁術のもとへ使者を送り、劉備が南郡侵攻の計画を進めていると伝える。そうすれば袁術は、劉備に戦いを挑むはず。その状況になったら、劉備に袁術討伐の命を出す。袁術と劉備が争っている間、呂布は劉備を裏切って徐州を奪う。

この筋書きは途中まで成功していた。袁術と劉備が交戦中に、呂布は徐州を奪っている。しかし、呂布と劉備はすぐに和解。劉備と袁術も和解したため、荀彧の策は再び失敗に終わった。



十面埋伏の計
袁紹軍に大打撃を与えた 参謀・程昱 考案の最高作戦

官渡の戦いで敗れた袁紹軍だったが、倉亭に陣を構え巻き返しを狙う。一方、曹操軍も完全勝利へ向け、次なる合戦の準備を整えていた。 そこで曹操の参謀・程昱は、「十面埋伏の計」を提案。  『まずは、10隊の伏兵を配し、中軍が敵軍に夜襲をかけるフリをする。そこで、敵軍が攻めてきたら、あえて黄河の岸まで軍を下がらせる。我が軍は後がないため、兵士は必死になって戦いを挑む。そうなれば、必ず我が軍に勝利の軍配があがることでしょう。』 曹操は、この作戦を採用。10隊の伏兵は、左右に5隊ずつに分けられた。そして、先陣を切る部隊には中軍を配したのだ。 夜になると作戦どおりに中軍が袁紹軍の本陣へと攻めて行く。それに袁紹が迎え撃ってきたところで、わざと黄河の岸まで敗走。 岸まで来たところで、中軍は決死の覚悟で、再び敵軍へ向かった。 伏兵の一部隊が背後から襲撃。袁紹軍はこれを逃れようとするが、次々と現れる伏兵軍の攻撃で、壊滅状態となった。



八門金鎖の陣
劉備の軍師となった徐庶が曹仁の切り札を打ち破る!

207年、曹操は劉備討伐のため、樊城に曹仁率いる3万の軍を配していた。 まず、先鋒として呂曠、呂翔が5000の兵を引き連れて、劉備のいる新野城を攻撃。しかし、劉備軍の返り討ちに合い先鋒軍は敗退する。 これに激怒した曹仁は、「八門金鎖の陣」を敷き、新野城へ攻撃を仕掛けた。 その時、劉備軍には軍師として徐庶が加入していた。 徐庶は敵の陣形をすぐに「八門金鎖の陣」と見破り、劉備にその攻撃方法を伝授。
八門とは 【休・生・傷・杜・景・死・驚・開】 の8つの方角で、それぞれに吉凶がある。つまり、攻め方しだいで戦況が大きく変わってくることになる。勝利をつかむためには、生門、景門、開門の吉方から攻めるしかない。 そこで徐庶は、 『生門から攻め入り、景門から出れば陣形は崩れる』 と判断した。 その指示に従い趙雲は生門から景門へ向かって突入。曹仁軍の陣形は、生門を守ろうとするため、整っていた配置にズレが生じてきた。さらに趙雲は引き返す形で、生門へと突き進んだ。 これで完璧に陣形が崩れ、そのスキをついて劉備軍が波状攻撃。見事、劉備軍は勝利を収めた。



草船借箭の計(そうせん しゃくせん のけい )
20艘の船にわらの束を積み敵軍から10万の矢を奪う

赤壁の戦いで、周瑜は諸葛亮に対し、3日間で10万本の矢を作ることを約束させる。これは、自分の考えを全て見抜く諸葛亮を殺害するワナでもあった。しかし、諸葛亮はこの作戦も見抜いていたのだ。 約束から3日目の夜、激しい霧の中、魯粛の船にわらの束と数十人の兵を乗せ、対岸の曹操軍へと近づく。船を横一線に並べた諸葛亮の声を聞くと、曹操は矢での攻撃を開始。矢は船に積まれたわらに隙間なく刺さり、明け方には10万本の矢が船に刺さっていた。 諸葛亮はこの霧を予測し、周瑜との約束を3日間に設定したという。



苦肉の計
三国志上伝説の火攻めはある男の演技がもたらした

赤壁の戦いにおいて、連合軍の最高司令官だった周瑜のもとへ、黄蓋が火攻めの必要があると説得しにやってきた。周瑜も同じ考えであったが、蔡中、蔡和のように偽装降伏者の作戦を考えていたのだ。 それを聞いた黄蓋は、自分がやると申し出て、自分が罰を受けたように体中を杖で打たせた。 黄蓋の意図を察した闞沢もこの策に参加。曹操へ偽の降伏状を送る役をかって出たのだ。 この偽装工作を信じた曹操は、敗戦を強いられる。



氷城の計
寒さを利用した 曹操、起死回生の策

211年、曹操は関中を支配する馬超と渭水で激突する。 曹操は、渭水の北岸と南岸に陣を構え、船で浮き橋をつくり、両岸を行き来できるようにしていた。対する馬超は、火攻めで抵抗。陣と浮き橋を焼き払い、両岸の交通を遮断することに成功した。 曹操は、石と砂で陣の再建を急いだが、馬超の攻撃ですぐに崩壊する状況。 砂地のため、強固な砦を築けずにいた曹操に、隠者・婁師白(ろうしはく)がある助言をしてきたのだ。 『連日、暗雲が立ち込めているので、いったん北風が吹けば、必ず地面は凍りつきます。風が吹き始めたときに、兵士を使って土に水をかけておけば、夜明けには土の城ができるはずです』 この助言を聞いた曹操は、瞬時に行動へ。 全ての兵を導入し、土に水をかけさせたのだ。すると夜明けには、砂と水が凍りついて、見事な土城が出来上がった。 これを機に、曹操は猛攻を仕掛ける。 馬超と韓遂の仲を裂こうと、書き直しの手紙を馬超に送るなどの行動に出た。この策に馬超はあっさり引っかかり、2人の仲は断絶状態に。曹操は、馬超を破り関中を手中に収めることに成功した。



七星壇
天候までも操った諸葛亮の奇策は圧巻

周瑜は、苦肉の計の成功もあり、火攻めの決断を下した。しかし、東南の風が吹かないと、自分たちが火をこうむってしまう。そこで、諸葛亮は周瑜にある約束をする。
『私が東南の風を吹かせましょう』
結果を言えば、諸葛亮の宣言どおり東南の風が吹いて、連合軍は勝利した。
なぜ、諸葛亮は風を吹かせることが出来たのか。 諸葛亮は、【奇問遁甲天書】を伝授されているので、風や雨を呼び込めると説明。奇問遁甲とは方位術であり、お札を使った祈りをすることで風を呼ぶことが出来るという。 三国志では、諸葛亮は次のような祈りをしている。 高さ約70cm、広さ約55cmの壇を三層築き、最下層には二十八宿の星を描いた旗を立てた。そして、東南の方角に赤土を運ばせ、自身も道衣に着替え準備を完了。そして香を燃やし、天を仰いで祈りをささげたのだ。 すると、徐々に東南の風が吹いてきたというからすごい。 二十八宿の旗は、天文占を用いたために立てられた。また、占文に合うように星を動かすため、道教の秘術も使っている。 つまり諸葛亮は兵陰陽家となって、風を呼んだのだ。



空城の計
互いの考えを熟知する2人だからこそ使えた術

諸葛亮の北伐に、ライバルとなって立ちはばかったのが司馬懿。彼らは数々の名勝負を残した。 街亭の戦いで馬謖を破った司馬懿は、西城に15万の兵とともに駐留。一方の諸葛亮軍は、兵のほとんどが兵糧の運び出しに徹していた。つまり身近には文官ばかりがいる状況だ。こんなときに攻めて来られては、敗退は必須。そこで諸葛亮は秘策を講ずる。四方の門を開放し、自らは楼台に登り琴を弾き始めたのだ。 この様子を伝え聞いた司馬懿は、何かあると疑念を抱く。息子の司馬昭は演技だと進言するも、司馬懿は 「このまま進撃すれば諸葛亮の思うがまま」 と悟り、軍を引き上げさせてしまったのだ。



八陣図
無尽蔵に変化できる 

諸葛亮が生んだ最大の戦術! 『三国志演技』には、3度八陣図に関する記述がある。
曹仁の【八門金鎖】、諸葛亮が陸遜の追撃を止めた【石陣八陣】、そして【八卦陣】。これが使われたのは北伐の時で、諸葛亮が司馬懿の【混元一気陣】に対抗する陣として敷いた。 八卦図は、城壁を連ねたようになっており、進入しても出ることが出来ない。しかも、8つに陣形の変化が可能で、敵の攻め方によって瞬時に対応できるのだ。