-用語集-

あ行

◆阿斗
劉備
の嫡子で、蜀の二代皇帝となった後主・
劉禅の幼名。
母の甘氏が、妊娠中に北斗星の夢を見たことから名づけられた。
長坂の戦い趙雲に救われた故事は有名。
父から譲られた蜀の国を守ることが出来ず、滅ぼしてしまったため、「阿斗」は無能な人間の代名詞として使われることがある。 

◆烏丸
中国北東の狩猟遊牧民族。
漢代には東胡とよばれ、紀元前209年ごろには同じ遊牧民族の匈奴によって滅ぼされ、生き残ったものが烏丸山に立て籠もったことから、烏丸という名がついた。
勇猛な民族性で騎射にも優れ、漢朝とは争いと服従を繰り返した。
河北を平定した曹操により討伐され、降伏した烏丸の兵は曹操軍に組み込まれた。

王佐の才
帝王を補佐する戦略家・軍師としての才能を賞賛した呼び方。
歴史上では、武王を助けて周の創建にに尽力した
呂尚(太公望)や、漢の高祖・劉邦を補佐した軍師・張良など、強大な王朝を築いた始祖を補佐した名軍師が王佐の才の理想とされている。
三国志の人物では、荀彧が若い頃呼ばれていた。


か行

建安七子
孔融・陳琳・徐幹・王粲・応瑒・劉楨・阮瑀ら七人を総称して、建安の七子と呼ぶ。
それに加えて、建安文学の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹一族の曹操・曹丕・曹植の三人(三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することもある。

江東の二張
張紘・張昭の二人の人物の事。
孫策の袁術からの独立に際して孫策に説得され陣営に加わった。


五虎大将軍
演義において劉備の入蜀後、諸葛亮の進言により劉備が自軍の中で特に武勇に優れた武将に与えた称号。
関羽を筆頭に張飛・馬超・黄忠・趙雲の五人に与えられた。

逸話だが、関羽は他の四人を知ると、老将・黄忠や新参者の馬超らと同列に扱われる事に不満を持った。しかし使者であった費詩に諌められ、任命を受け入れた、という説がある。

五斗米道 
2世紀半ばに張陵が創始した宗教教団。張角太平道と並び道教の源流とされる。
信者に米五斗(約10・)を出させたので米賊とも呼ばれ,教主の自称から天師道とも称する。
後漢末の分裂状況のなかで陝西,四川において漢族のみでなく少数民族も参加し,2代張衡,3代張魯のとき,組織の勢いが強まり,215年(建安20)に曹操にくだるまで独立を保った。

呪術的な儀式によって信者の病気を治癒せしめ、流民に対し無償で食料を提供する場を設けた。
悪事を行ったものは罪人とせず3度まで許し、4度目になると罪人と評して道路工事などの軽い労働を課した。
これらのことにより信仰を集め、さらに信者から構成される強固な自治組織が形成されていった。
一般信者を鬼卒、それをまとめるものを祭酒、更にその上に治君・師君(張魯が号した)を置く階級制があった。


さ行

三顧の礼
重職にある者が人材を迎え入れるために何度も自ら赴くことをいう。
劉備が在野の諸葛亮を軍師に迎え入れるため、草庵を自ら三度に渡って訪問し、迎え入れた故事が由来となっている。
劉備の1,2度目の訪問は留守で会えず、3度目の訪問でようやく対面となり、その志に感服した諸葛亮は「天下三分の計」なる戦略を説き、劉備の軍師となった。

七歩の詩 
曹操の死後にあとを継いだ曹丕は、後継のライバルだった弟の曹植に、「七歩を歩く間に詩をつくれ」と命じた。
これは、華キンが曹植の才が本物かを確かめる為に進言をした事であった。
一頭が井戸に落ちて死んでいる絵を題にしてしかも、厳しい条件を付けた。
曹植は、現代訳で言えば、
「角のある肉のかたまりが二つ出くわして争い、一つが井戸におちた。力が弱かったのではなく、気力が充分に発揮されなかった為だ。」
というような詩を作り上げた。
これを聞いた曹丕は、
「七歩では遅いので、今すぐに「兄弟」を題材に。しかも兄弟という言葉は用いてはならない!」
と命じた。曹植は瞬時に、
「豆柄を燃やして豆を煮る。煮られる豆は、熱いのでなべの中で泣いている。自分たちは同じ親から生まれたのになぜ自分を痛めつけるのか」
という様な詩をつくった。

だがこれは後世の創作であるようで、この詩は曹植の作品ではないという見方が強いようである。
またこのエピソードは、兄の弟イジメというふうに捉われがちであるが、君と臣の立場を明確にさせ、それを本人も含め周囲に知らしめるためという説もある。

出師の表
諸葛亮が227年の北伐に際して蜀漢皇帝・劉禅に奉呈した、世に名高き名文のこと。
彼の政治の理論と、忠誠心が披瀝されており、特に日本人にとっては、愛すべき文章となっている。

白波
長安の周辺を荒らす賊の首領、韓暹・李楽・胡才がいた白波谷の名から、賊たちは白波賊といわれた。
この白波賊がルーツとなり、盗賊のことを「白波」と呼んだりする。
 

水魚の交わり
水がなければ魚は生きていけない、必要不可欠な友の存在の例え。
三顧の礼で諸葛亮を迎えた劉備と、孔明の交わりを評して言われたもの。

青洲兵
董卓の死後、曹操が黄巾賊の残党討伐を実行した際に指揮下に入った農民部隊のこと。
後に曹操の主力軍となり圧倒的な精鋭集団に成長した。

青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)
演義において関羽とその息子・関興が愛用していた大刀。
劉備・関羽・張飛による桃園の誓いの直後、商人の張世平蘇双が、劉備らへ馬と金を援助した。関羽はこの援助を受けて、青龍偃月刀を作らせた。その重量は八十二斤(約18kg)もあったという。

関羽が呂蒙に破れ斬首された後、潘璋孫権より褒美として青龍偃月刀を与えられた。その後、関羽の息子・関興潘璋を討ち青龍偃月刀を取り返した。


た行

太平道
後漢中期に干吉が神人より授与された『太平清領書』(『太平経』)を信奉し,太平の天下を実現しようとしたので太平道と呼ばれる。
五斗米道とともにのちの道教の源流となった。

まじないで病人を治すなどで信者数を増やし、黄巾の乱を起こす原動力となったが、その後廃れていき最終的には五斗米道に吸収される形で道教に発展した。

洞主(どうしゅ)
南蛮において砦のことを洞と呼び、洞主はそこの長官。
ただ、砦といっても単なる軍の防衛施設というよりは、天然自然を利用して築かれた城砦であったり、漢帝国における城のように都市を囲うものであったり、態様も規模もさまざまであったようだ。
そしてその長である洞主は、単なる一軍の隊長というよりも、地方官としての権力を与えられていたとも考えられる。


な行

二喬(にきょう)
喬玄の娘で「江東の二喬」と呼ばれており、姉は大喬、妹は小喬と呼ばれ絶世の美女とされていた。


は行

白馬義従 
公孫瓚が従えていた騎馬隊の事。

公孫瓚は射撃に優れた者を選抜し全員に白馬を与え、戦場において自身の近くに置いた。その勇名は異民族にまで知られていた。
袁紹との界橋の戦いにおいて公孫瓚自慢の白馬義従は麹義に接近戦に持ち込まれ敗れた。

白眉
「大勢の中で最も傑出したもの。」「兄弟の中で最も優れたもの」という意味。
蜀の馬家の5人兄弟はみな優秀だと有名であったが、中でも
馬良が最も優れていた。
この馬良の眉に白い毛があったことから、多くの中で最も優れた人物を
白眉というようになった。

反骨の相
反を起こすと言われる骨相。後頭部が絶壁で、一箇所突起している。

三国志演義において、
魏延がこの相の持ち主。
そのため、劉備軍の長沙攻めにおいて魏延は
劉備に呼応して太守韓玄を討ち、黄忠を救い、長沙を開城したにもかかわらず諸葛亮に処刑されかけた。


ま行


や・ら・わ行

洛神の賦
曹植が吟じて残した詩文。
太古の時代に水に身を投げて川の精となった宓妃(ふくひ)という姫のことを詠んだ内容のものだが、曹植は兄の妻である甄氏に恋焦がれ眠れぬ夜を過ごしたといわれ、この詩もひそかに甄氏の美しさを詠んだものであろうといわれている。