おもな合戦

黄巾の乱 (184年)
後漢末の農民による叛乱。乱徒がみな黄巾をつけて標識としたため、黄巾の賊と呼ばれる。
後漢も中期を過ぎると、官僚、外戚、宦官らの対立が激化して内政は乱れ、天災飢饉も続いたことから、民衆の疲弊は甚だしく、流民となって流亡する者が激増して、従来の村落秩序は大きく崩れざるをえなかった。
このような社会状勢のなかで、迷信が民心をとらえた。
霊帝のとき、鉅鹿に人張角は于吉の教え(太平清領道)の教えを中心に民間の信仰などをあわせて、太平道(中黄太一道)と呼ばれる宗教を唱え、自ら大賢良師と号し、常に九節の杖をたずさえて、罪過の反省と懺悔による病気の治療などを説き、布教につとめた。
太平道はたちまちのうちに貧民や土豪の心をとらえ、10余年で信徒数十万を獲得した。張角はそれらの信徒を方とよばれる教団に組織したが、これは貧民や土豪の反権力的な性格とも結びついて、政治的、軍事的な組織ともなった。
教団が膨張発展すればするほど、朝廷にとっては大きな脅威となり、しばしば弾圧を行なったものの、逆に信徒の団結と教団の組織を強化させ、また反権力的な性格を強くした。張角は自らを天公将軍と号し、弟の張宝張梁とをそれぞれ地公・人公将軍と称させ、漢の火徳に代わって帝位につくべき者という意味で、土徳の黄色を標識とし、

「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子にあり(すべてが始まる年)、天下大吉」

といって民衆を扇動し、宮城の門や州郡の官府に「甲子」の文字を落書きし、また宮中の宦官と気脈を通じて叛乱を起こそうとした。
しかし、密告によって事が漏れると、184〔中平元〕年2月、檄を全教団にはせ、たちまち大叛乱となった。

これに対し朝廷は、何進を大将軍として洛陽に駐屯させ、洛陽を囲む函谷関など8関に都尉官をおくなど洛陽の防備を固めるとともに、皇甫嵩の建議により、党人禁錮の令を解き、強制移住者を帰させるなど人心の掌握につとめ、さらに盧植、皇甫嵩、朱儁などをして黄巾軍を討伐させた。
張角が病死し、張宝や張梁も戦死したために黄巾軍の主力は衰えたが、この黄巾に呼応して各地に叛乱が巻き起こった。

同年末には金城に辺章韓遂が、翌185年には太行山脈の山谷に黒山と称する叛徒が、続いて186年には江夏の兵、187年には涼州に馬騰、王国が、漁陽に張純が、さらに遼東には太守楊終らが、188年には休屠族の侵入するなど、地方の政治は全く麻痺した。
しかも中央では宦官が再び権力を振るうようになり、何進が殺されると、袁術は宦官討伐を名目に挙兵した。
続いて地方の太守や将軍が次々と挙兵し、あるいは洛陽に攻め入って、中央官僚や宦官の勢力を一掃し、或は地方に拠って政権を樹立したから、後漢王朝の滅亡は決定的となった



虎牢関の戦い (191年)
シ水関で華雄を討ち取り、勢いに乗った反董卓連合軍は虎牢関へと進軍する。
関前に待ち構える呂布を相手に張飛が挑みにかかり奮戦するにも勝負がつかず、関羽が加勢して挟撃、さらに劉備も加わって攻め立てた。
呂布は3人相手に戦うが、分が悪いとみて虎牢関へ戻った。
この戦いで連合軍の勢いを見た董卓は
、長安に遷都する決意を固めた。


下ヒの戦い (198年)
呂布は徐州を本拠とし、曹操・劉備と争っていたが、曹操に内通する陳珪・陳登父子の工作により小沛を失う。
下ヒに籠もった呂布は、陳宮の忠告も聞かずに酒色に溺れたかとおもうと、一転城内に禁酒令を出すなど配下の信用を失い、侯成・魏続・宋憲の裏切りにより捕らえられた。
呂布は曹操に命乞いをするが、劉備の忠告により処刑された。

 
呉郡平定戦
孫堅の戦死後、袁術の下にいた孫策は江東で旗揚げを決意し、玉璽を質に兵を借り出陣する。
孫策のもとには程昔・黄蓋ら宿将、親友の周瑜、江東の二張らが集い、怒涛の勢いで長江を渡った。
曲阿に劉ヨウを破り、太史慈を説得して味方に加えると、呉郡の厳白虎王朗と連戦連勝する。
これにより孫策は江東の肥沃な大地手中にし、呉の礎を築いた。


袁術討伐戦
玉璽を入手し、皇帝を称した袁術だったが、曹操・孫策らに大敗し衰退する。
切羽詰った袁術は、公孫サンを滅ぼして勢いに乗る袁紹を頼ろうと北上を決意した。
それを知った劉備は、曹操に兵を借りると袁術討伐に向かう。
張飛の一撃で紀霊が討ち取られると、袁術軍は総崩れとなり寿春に戻ろうとした袁術は失意のうちに血を吐いて絶命した。


官渡の戦い (200年)
後漢の末の200〔建安5〕年9月から十数箇月にわたって、曹操袁紹とが官渡で雌雄を決した戦い。
この前年遼東の公孫サンを撃ち破った袁紹は、北支一帯にまたがる大勢力となり、根拠地の許に献帝をうつし、山東方面に強勢を誇っていた曹操と後漢末群雄の争いを2分していた。
200〔建安5〕年8月曹操は軍を黎陽に進めて、勢力地を拡大し、12月には官渡に進駐して、ここを前線基地とした。
一方袁紹も黎陽に出兵し、さらに陽武、官渡と兵を進め、ここに戦端が開かれた。
この時の曹操軍は兵力は万に満たず、兵糧も少なかったが、袁紹の軍は数十万あるいは十数万といわれ、戦線は40里にもおよんだから、曹操の劣勢は明らかであった。
曹操軍は袁紹の攻撃で2、3割が傷ついたが、土塁や地下道を築いて防戦した。
袁紹も高楼を建て、高く土を積んでその上から矢を射かけるなど、策略と奇襲による攻防を繰り広げた。
中でも曹操が石車という飛び道具を使って袁紹の高楼を撃破し、軍中呼んで霹靂車といったというのは、注目に値する。

決戦は十数ヶ月にわたったが、知略と武勇とに優れた曹操が、わずか数千の手勢を率いて袁紹軍の前線を突破し、さらに袁紹軍の補給線を断ち形勢は逆転し、曹操の勝利に終り、冀州も曹操の手に帰した。
敗戦後袁紹は発病し202〔建安7〕年の5月血を吐いて死んだ。


赤壁の戦い (208年11月)
208年、中原の覇者である曹操が大群を率いて荊州へ侵攻すると、荊州牧のは戦わずして降伏、領土を曹操へ譲り渡してしまう。
当時、客将として荊州に在った劉備も、曹操軍に追いかけられながら、命からがらなんとか江夏太守・劉キの元へと逃げおおせた。
 
曹操は先に吸収した荊州の水軍を加え、数千隻にもなる軍船を組織して、今度は孫権の領土を勢力下に取り込もうと目論んでいた。
それに先立って曹操は、孫権に降伏状を送っている。
「この水軍と自軍の兵、合わせて80万で長江を攻め下り、ぜひあなたと腕比べがしたいものだ」・・・というのである。
呉の国内では曹操の恫喝におびえ、講和を主張するものが多数だったが、抗戦派の将軍・周瑜
「5万の精鋭があれば必ず曹操軍を粉砕してみせます」
という言葉に力を得て、孫権はついに曹操との決戦を決意した。
決戦に先立って孫権は劉備と同盟している。少しでも兵力を増やしたかったのである。
それでも全兵力は曹操軍の半分にも満たなかった。

周瑜は3万の水軍を率いて長江をさかのぼった。
一方、この動きに対応して曹操も江陵にあった荊州水軍の主力を動員。水陸あわせて20万の大軍で長江沿いに下っていく。
曹操軍は長江北岸の烏林に数千といわれる巨艦を並べ、またその沿岸にも堅固な陣営を建て列ね、その様子はあたかも巨大な水上要塞のようであった。
対岸の赤壁で対峙する周瑜の水軍も、この鉄壁の守りに攻めあげんでいた。戦いは長期戦の様相を呈してきたが、このとき呉軍の老将・黄蓋が、
「あの密集隊形なら、焼き討ちをかけたらあっという間に燃え広がること間違いありません」と、周瑜に火攻めを進言した。

奇襲攻撃は風向きが東南の風、つまり曹操軍にとって向かい風となる日を待って決行された。
これに先立って、事前に黄蓋周瑜と仲違いをして不満を持っているという情報を曹操軍に流し、黄蓋からも周瑜を見限って曹操軍に投降を申し入れるという書簡が送られている。どうやらこの策略が効いたようである。
作戦決行の夜、黄蓋は数十艘の軍船を率いて投降を装いながら曹操の陣営に接近した。
後方には夜陰にまぎれた周瑜の水軍が後続している。
また、黄蓋配下の軍船には葦や草が満載され、これに魚油がたっぷりと注がれていた。
「黄蓋が投降してきたぞ!」
曹操の陣営では、接近してきた黄蓋の軍船を全く警戒する様子もなくこれを見守っていた。そのタイミングで、
「火を放て!」
突然、猛火に包まれた黄蓋の船団が突進していった。
密集していた曹操の船団は逃げる間もなく、次々と火だるまの軍船に衝突された。さらに折からの強風に煽られ、猛火は陸上の陣営にも燃え広がっていった。
そこに周瑜の本軍も殺到して総攻撃を開始したから、たまらない。
二十万の大軍も、敵と猛火に追い立てられて大混乱に陥っているのだから全く役に立たなかった。
曹操は江陵目指して敗走し、周瑜軍がこれを追った。
また、それまで陸上で待機していた劉備軍もこの追撃戦に加わった。水上では周瑜軍、陸上からは劉備軍が残敵を掃討しながら荊州最大の要所である江陵めざして進撃する。
命からがら江陵まで逃げ帰った曹操は、この地の守備を曹仁に任せて北方に引き上げた。
曹操は軍内に蔓延した疫病とこの戦いで多くの兵を失い、もはや踏みとどまって戦うことが出来なかったのである。
曹操が去った後、周瑜は江陵を包囲した。
一方、この籠城戦に周瑜が釘付けになっている間、劉備は南に兵を進め、長江南岸の武陵、長沙、桂陽、零陵の四郡を平定。わずかの間に広大な版図を手に入れた。
結局、周瑜が確保できたのは長江流域のわずかな地域のみ。しかも長江北岸は、未だ曹操の支配下にあるという状況であった。
赤壁の戦いの主役として勝利した孫権よりも、戦いを傍観していた劉備の方が巨利を得たことになる。
赤壁で大敗したものの、なお強大な曹操への対抗上、劉備と孫権の同盟関係はこの後も維持されるが、
「荊州の領有権は赤壁で勝利した我らのもの」
と主張して、呉の諸将には劉備を恨む者も多かった。それが後の悲劇の火種ともなる。


合肥の戦い (215年)
孫権は、自身の悲劇であった合肥の支配のため、戦いを仕掛ける。
合肥は、曹操軍にとっても戦略上の要であるため、経験豊富な張遼らを将に配し、堅虎な防衛線を張っていた。
ただ、この頃曹操は益州侵略も重なり、多くの軍が西へ向かっていたのだ。
そのため、合肥は7000ほどの兵しかいない状況。その機を狙い、孫権軍は一気に攻め込もうとした。
しかし曹操軍の張遼が、攻め込まれる前に孫権軍に先制攻撃。
これに怯んだ孫権軍はわずかに戦っただけで、撤退していった。


定軍山の戦い (218年4月~219年5月)
曹操は、陽平関の戦い(215年)で勝利し、漢中を支配。その翌年、魏王にもついた彼は、一気に成都盆地侵攻を狙う。
そんな時、孫権の合肥侵略があり、夏侯淵を主将とした部隊を駐屯させ、主力を本拠地に引き戻す。
これをチャンスとみた劉備は、陽平関を攻撃。失敗に終わるも、諸葛亮を呼び寄せ新たな目標を定軍山に定めた。
戦いは劉備軍の黄忠が夏侯淵を討ち、定軍山を制圧し、漢中盆地へ侵攻。
打つ手なしと見た曹操は、漢中を放棄し、劉備が支配することとなった。

樊城の戦い (219年7月~12月)
漢中侵攻に成功した劉備は、荊州北部の樊城への侵攻を開始する。
劉備軍は、関羽が3万の軍勢を率いて北上する。そのとき、樊城周辺に大雨が降り、漢中が氾濫。関羽は船を用意していたため、軍をスムーズに進め、敵軍を翻弄。
しかし、水の引きが早く曹操軍の反撃に遭い撤退することに。
この時、関羽の拠点だった江陵は孫権軍(このとき呉軍を率いたのは呂蒙)に攻撃され落城。孫権は荊州奪還のため曹操と密約を交わしていたのだ。
その罠にはまった関羽は、孫権軍に捕らえられ死を迎えた。


街亭の戦い (228年1月)
223年に病死した劉備から後を託された諸葛亮。呉との国交回復や南方の異民族を制圧するなど、魏と戦う状況を整えていく。
そして227年、皇帝の劉禅に「出師の表」を上奏。魏を倒すべく北伐へと向かっていった。
長安を目指す蜀軍は、祁(き)山を制圧し街亭の占拠を狙っていた。その先鋒を命ぜられたのが馬謖
しかし彼は、諸葛亮から言われた防衛作戦を無視し、魏軍(このとき魏軍を率いたのは張郃)を一気に倒そうとする。魏軍の反撃に遭い、蜀軍は撤退を余儀なくされた。
蜀は、せっかく奪った雍州三郡も奪い返されてしまい、この戦いの敗戦の責任により馬謖は処刑された。これが有名な「泣いて馬謖を斬る」である。


五丈原の戦い (234年)
劉備の願いをなんとしても叶えたい諸葛亮は、10万の兵を引き連れて、5度の北伐へと向かう。蜀軍は、まず北原を攻めるが、敵将・司馬懿は、先に布陣をしいて迎撃に成功する。蜀軍は建て直しのため五丈原に陣を構えた。
諸葛亮は、幾度となく司馬懿に手紙を送り、敵を引きずりだそうとする。
しかし、司馬懿もこの手には乗らず膠着状態が続いた。そんな中、諸葛亮が病に倒れてしまう。諸葛亮は夢を果たせず病死。大黒柱を亡くし、士気の下がった蜀軍は撤退した。