楚漢戦争

1.陳勝・呉広の乱
陳勝(陳渉)と呉広が起こした「陳勝・呉広の乱」をきっかけに楚漢戦争は始まる。この反乱は中国史上初の農民反乱だった。
陳勝と呉広は貧しい農民出身で、ある日労役のため漁陽という 長城付近の町まで行かなければならなかった。
行くのはこの二人を含めて、何百人とう単位の人々。
一行が大沢郷という町に差し掛かった頃、大雨が降って道が断たれ、 大沢郷で何日も足止めをくらい、漁陽に期日に まで行くのは不可能な状況に陥ってしまう。

秦の法では、労役の際、期日までに着けなければ、如何なる理由があっても斬罪の刑だった。
陳勝は、
「王候将相いずくんぞ種あらんや!」(王、候、将、相になるのは血統からではない!)
と言って仲間を説得し、ついに反乱に踏み切る。

そんな農民から立ち上がった反乱集団は快進撃を続け、周りの町村の兵を吸収して大きな勢力に膨れ上がり、陳に着く頃には兵車六百、騎兵一千、歩兵万余の大軍になっていった。
そして 陳で王を自称し国号を張楚とした。
そんな情勢のなかで、この乱に応じて、大陸のあちらこちらで反乱が起こりる。その中に項梁劉邦がいた。            

項梁は会稽で郡守を殺害して、旗揚げに成功した。この項梁の甥に、項羽がいた。
項梁は近隣の町村を従えて勢力を拡大していった。 
一方、劉邦は項梁とは違って、農民で、いつも窃盗やなんやの事件を起こしていた問題児 だった。 
しかし人柄は決して悪くなく、そんな劉邦を慕ってくる仲間は大勢いた。その中には晩年、漢の相国を務めた蕭何曹参などの姿があった。
劉邦はこの二人に推戴されて故郷である沛県で旗揚げし、「沛公」と名乗った。

陳勝の快進撃は長くは続かず、秦帝国の討伐軍により倒されてしまう。
陳勝の軍 は大軍といっても農民が集団で固まっているだけで、いわゆる「烏合の衆」。武具を整えている秦軍が相手では人たまりもない。
陳勝 は秦軍に敗走させられ、逃亡している所を御者に暗殺されてしまった。

 

2.楚の再興
項梁は陳勝の死を知ると、反乱の名義を固める為に楚 王の血筋の人間をさがして王の位につかせた。これが懐王心である。

劉邦は近隣の町村を降して力をつけていった。
しかし本拠地の留守を守っていた雍歯が魏に寝返ってしまう。
ここで劉邦は、会稽で順調に旗揚げし現在大軍をもってにいる項梁に兵を借りに行きくことにした。
項梁は劉邦に数千の兵を与えました。
この時点で劉邦は項梁 (楚)配下の将軍という形になり、劉邦は項梁の別働隊という形で秦軍達と戦った。

その後も順調に秦軍を撃退していた項梁だったが、定陶での戦いで秦将章邯に敗れて戦死してしまう。 
この知らせを聞いた項羽は彭城へ、劉邦はへ引き換えした。
懐王心は秦軍を勢いを恐れて項羽のいる彭城へ本拠地を移し、上将軍を宗義、次将軍を項羽とし、へ救援を向かわせた。 
碭にいる劉邦には武安君の称号を与え、「一番最初に函谷関に入ったものを関中の王にする」と布令をだした。

趙の救援軍の将に任命されたのは良いが、上将軍ではく次将。
加えて、「最初に函谷関に入ったものを関中の王にする(=※項羽がこれから行く趙は函谷関と全く逆の方角にあった)」等と言われてしまったので、プライドの高い項羽にとってはたまったのもではなかった。

しかし項羽はそれでも宗義について行軍していった。

そんなある日、宗義は自分の利益の為に軍の行軍を止めて一月の間動かそうとしなかった。
項羽はついに宗義を殺害し、自分が軍の上将軍となった。そして軍を率いて趙を救援し、鉅鹿という所で秦軍を破り、敵将一人を殺害、一人を捕虜にした。
そして棘原で秦将・章邯とも対峙したが、こちらは容易に勝負はつかなかった。
この時、項羽と対陣していた秦将・章邯は、しばしば軍を引いた。
二世皇帝・胡亥はこれを責めた、といっても、皇帝は宦官・趙高のくぐつにすぎなかったのであるが。
趙高は章邯が華々しい戦果を上げる事に、自分の立場の危うさを感じており、自分の立場を守る為に章邯を殺そうとまで考えていた。

このことを悟った
章邯は、周囲の者からの説得で項羽に降伏する事に決意する。
章邯の降伏により、項羽率いる楚軍は、秦軍の兵や諸侯の兵などを合わせて五十万以上の大軍団に膨れ上がった。
しかし、降伏した秦軍は、楚の兵達や、秦帝国に滅ぼされた六国の民に恨みをもたれていたため痛めつけられた。
このような状況で、項羽は軍全体の四割を占めている秦の兵卒が反乱すれば、軍の崩壊につながりかねないと思い、
新安で配下の黥布に命じて、秦の兵卒二十万 急襲して穴埋めにして殺害した。

一方、劉邦の方も、参謀の張良達の活躍で、函谷関に向かって順調に行軍していた。
そして (前206年)ついに函谷関に入るに至った。
劉邦は配下の兵卒に掠奪を許さなかった。掠奪を行えば民心を得る事が難しくなるからである。

 

3.秦の滅亡
趙高は劉邦が函谷関に入ったと聞くと、罪を全て胡亥になすりつけ殺害。劉邦に寝返って恩賞にありつこうとした。
しかし趙高は胡亥の後に即位した
子嬰に殺害される。子嬰は趙高のやり方を知っていたのだった。
即位した子嬰は 秦皇帝ではなく、秦王を称し、劉邦に降伏した。
ここに秦は滅亡する。(前206年)

秦王を殺そうとする意見も出たが、劉邦は殺さなかった。
そして三章の法律を発布し、民心の確保に努めた。
秦の民は大いに喜んで、争って劉邦に酒や肉を贈 り、誰もが劉邦が秦王になる事を望んだという。

 

4.鴻門の会
ある時、劉邦に函谷関を閉じられるように進言する者がいた。
劉邦は、項羽が関中に入ると自分が今の地位にいることは無いと思ったため、函谷関を閉ざし、項羽が関中に入れないようにした。

項羽は順調に兵を西に進めて 函谷関に至った。
そこに、先頭を行っていた物見から「関が閉ざされている」と連絡が入る。項羽は 最初これを信じなかったが、事実と分かると大いに怒った。
項羽は難攻不落とうたわれた函谷関に兵を進め、これを破って関中に入った。そして劉邦 を叩きのめすため、鴻門に陣を敷いた。

劉邦陣営は十万、楚軍(項羽側)は四十万の兵力。劉邦陣営には勝利の陰すらみえない。
この時、項羽の陣営に項伯という者がいた。
項伯は昔、殺人を犯して秦の役人に追われていた時、張良の家にかくまってもらったことがあったことがあり、張良だけは助けたかったため、急いでこれに会いに行った。

劉邦は鴻門から四十里はなれた覇上に陣していた。
張良は項伯から聞いた内容をそのまま劉邦に伝え、劉邦は驚いて項伯と張良に対応を求めた。
項伯は 「項羽の陣営に明朝詫びに来なさい。私が何とかしましょう」と言って去った。そして劉邦はそれに従う事にしたのだった。

翌朝、劉邦は極少数の兵と張良を従え、鴻門にある項羽の陣営へ行き、詫びを入れ誤解を説いた。
この時、項羽の参謀に范増という老人がいた。
范増は劉邦の器量を測り、ここで殺さなければならないと感じていた。
しかし項羽は劉邦を完全に偏見の目で見ていた
(=「農民出身の人間が自分に敵うはずが無い」とでも思っていたのだろう)ので、劉邦を許して一緒に酒を飲み交わした。
 范増は諦めなかった。そして項荘という者に剣舞を回せて、酒の席で劉邦を刺し殺そうとした。

張良は、范増の思惑を悟り、一緒に来ていた壮士・樊噲を呼んで、思惑を阻止しようとした。
樊噲は陣中に入るや、項羽の前に踊った。
項羽は「何者か!」と一括したが、樊噲は気負う事無く、劉邦を守った。
これを見て項羽は樊噲を気に入り、彼にも酒を与えた。
劉邦は 怖くなり、便所に行くといってそのまま関中に逃げた。後に残った張良は、劉邦の逃亡を謝罪した。

5.楚王として
項羽が秦都・咸陽につくと略奪は当たり前のように行われ、金銀や女は全て奪われ、秦の宮殿郡は全て燃やされた。
この時の咸陽には始皇帝が秦都を繁栄させる為に、各地の富豪を移住させて住まわせた大邸宅郡があったが、おそらくそれらも燃やされたであろう。
この火は三ヶ月の間、燃えつづけていたといわれている。
次いで項羽は、劉邦が生かしておいた秦王・子嬰も殺してしまった。

項羽は論功行賞を行い、十八の王を各地に封じた。劉邦はその一人として漢王とされ巴蜀地方へ行くことになった。

秦末の大混乱は項羽の大陸平定によって終息したかに思えた。
しかし、項羽の論功行賞を不服とする各地の諸勢力の反乱が 、各地で相次いだ。
項羽の論功行賞は非常に不平等なもので、主に王に封地されたのは、第一線で活躍した将軍連であり、”戦”、”政策に関しての妙計”や、”戦の勝利を左右した進言をおこなった者”には封地は与えられなかった。
これでは裏で暗躍していた参謀官はたまったものではなかった。その上、項羽は楚軍の象徴ともいえる懐王心をも殺害したのだった。


6.反乱相次ぐ
三斉(斉北、斉、膠東)の中に田栄という者がいた。
この人物は項梁の命令にしばしば違反したので封地をもらうことができなかった。
田栄は斉王に田市という人物を擁立したが、これに対し項羽は田市を膠東王に封じた。更に無名の田都を斉王に封じ、田安という者 を斉北王に封じた。
田栄は怒って田市を斉の地に止め、斉王・田都を殺害し完全に項羽に叛いた。
田栄に擁立された田市は項羽の攻撃を恐れ、田栄に黙って封地である膠東に行った。
田栄はこれに憤り、兵をやって膠東王・田市を殺害し、そして最後に斉北王・田安を攻めてこれを攻略し、自ら斉王の位に就いた。
田栄は王になると同時に、臨江王・
彭越に将軍の印綬を贈って項羽に叛かせた。

斉に続き、趙と代も反乱を起こす。
陳余は斉王の軍と共に常山国を撃って、項羽の許可が降りていない趙歇を趙王として自ら代王を自称した。


7.韓信、劉邦のもとに
ちょうどこの反乱が相次いだ頃、漢王・劉邦が漢中から兵を出して三秦(雍 、狄、塞)を平定した。
雍は秦の将軍として項羽等反乱軍と戦い、項羽に降った章邯が封じられた地だった。
三秦を平定したのは、新しい将軍として項羽軍から劉邦の元へきた韓信であった
韓信は最初項羽の配下にいたが、雑用係りのような役しか与えてもらえず、しばしば項羽に献作したりもしたが、受け入れてもらえなかった。
そこで劉邦の陣営にいったのだった。
しかし劉邦が漢王に封じられ、巴蜀地方に行く時に嫌気がさして脱走してしまう。
ところが、逃げた韓信を追って蕭何が連れ戻した。

蕭何は劉邦に韓信を推挙した。
この時蕭何は韓信の事を「国土無双」と賞している。
蕭何を絶対的に信頼していた劉邦はその場で韓信を将軍に任命し、万余の軍勢を与えて三秦を攻撃させた。
韓信率いる漢軍は見事に雍を攻略し、狄、塞、河南の国が皆、漢に降った。
韓は漢に降伏しなかったので、韓信がこれ討って平定した。その後も 韓信は魏、殷を降していった。

 

8.楚漢戦争
一方、項羽は斉、趙を討つべく北上していた。そして九江王・黥布に援軍を送るように要請した。
しかし黥布は数千の兵を送っただけであった。
このため、項羽と黥布の仲は悪くなった。
項羽は自ら斉へと軍を進めて斉王・田栄を破り、斉軍の捕虜を皆殺しにし、斉の民を捕虜とした。
ところが、また田栄の弟の田横が城陽で反乱を起こしたため、項羽は直ぐにこれを攻撃したが、今回はなかなか破る事が出来なかった。

項羽が北方鎮圧に手を焼いている時に、劉邦がついに楚へ攻撃を開始した。
楚の精兵はほとんど北方にいっていたので、本拠地の彭城はあっという間に漢軍の手に落ちた。
本拠地・彭城が劉邦に奪われたと聞いた項羽は、自ら精兵3万だけを率いて南下した。
漢軍は項羽率いる楚軍の前に散々に打ち負かされて、十余万の漢軍が殺害された。

劉邦は御者の夏候嬰だけを頼りに,滎陽まで逃げ延びた。敗残の漢軍達は劉邦が滎陽にいると聞くと、皆ここに集まった。
関中で前線への物資輸送にあたっていた蕭何も 、滎陽に出来る限りの兵員と、食糧を送った。これで漢軍はまた息を吹き返していく。

項羽はすぐさま滎陽に進駐し、漢軍は滎陽に立て篭もった。
対陣する事一年余り 、楚軍が漢軍の食糧補給路を侵し始めたので、漢軍は食糧が不足しだした。もちろんそれは楚軍にも言えることだった。
劉邦は項羽に、「滎陽をして東西に領土を分ける」という和睦案を提示した。
しかし項羽の参謀・范増は、ここで劉邦を殺す事を強く勧めたので、項羽はこれを一蹴した。

ここで陳平という人物が登場する。
陳平は劉邦から与えられた大金を使って、楚軍の主従を壊す事に成功し、項羽は主力の武将連を疑うようになった。
また、陳平は楚陣営の主従を破壊しただけではなく、巧妙な計略で楚軍唯一の参謀官であり、項羽から亜父とまで尊称されていた范増と項羽の主従までも崩す事に成功したのだった。
項羽に疑われるようになった范増は、 憤慨して項羽を見限り、郷里に帰ってしまった。

項羽に和睦案を蹴られた劉邦は滎陽から脱出を図る。
紀信という者が劉邦になり代わり、降伏した。
項羽が、紀信演じる”偽劉邦”の降伏に気をとられている間に、劉邦はなんとか滎陽から脱出に成功。そして滎陽を周苛という将軍に守らせた。

楚軍は劉邦が降伏投降してきたと知って、万歳を叫びに叫んで喜びあった。
しかし投降して来た劉邦は偽者で、本物は函谷関に逃げたということを知った項羽は怒って紀信を焼き殺した。

滎陽を死守してきた周苛も、終に滎陽城陥落と共に捕虜となった。
しかし、項羽は周苛を紀信のように、問答無用に焼殺したりはしなかった。
そればかりか、周苛の奮戦振りを気に入り、自分の将軍に登用しようとしたのだった。
ところが周苛は、「お前は早く漢王に降れ。お前は時期に虜にされるぞ。お前なんぞは漢王の敵ではないのだ!」と言い放った。項羽は周苛を煮殺しにした。

(*)紀信といい、周苛といい劉邦には本当に良い仲間がいた。
項羽が楚軍全体と主従の関係で結ばれていたのなら、劉邦は漢軍と信頼の関係で結ばれていたであろう。
紀信、周苛のような良き仲間がいてこそ、漢軍は最終的に楚軍を破る事が出来たのだ。

一方、函谷関に入った劉邦は再び兵を徴収し、配下の袁生の考え(劉邦が南にいると知った項羽はこちらにやって来ている隙に、韓信が趙、燕、斉を攻めて兵を集めるという策)で南の武関から出兵する事にし、南陽付近に駐屯した。
案の定、項羽はここにやって来た。
漢軍は塁壁堅くして守りに徹した。
項羽が劉邦とここで対陣している時、彭越が彭城付近で楚軍と戦い、楚軍を敗走させた。
項羽はこれを聞いて北上し、彭越を攻撃してこれを敗走させた。劉邦もまた北上して成皋という所に布陣した。
項羽は劉邦が成皋にいると知ってこれを攻めた。

項羽は正に大陸中を走り廻っていた。
劉邦が南にいると聞けば南に行き、彭越が北で暴れていると聞けば北へ行き、劉邦が成皋にいると聞けば再び南下した。
これでは項羽陣営の精兵も疲れきっていたであろう。

劉邦は成皋に陣したが、ここが項羽に包囲されると再び、御者の夏候嬰と二人で脱出し、韓信の陣営に逃げる。
劉邦は韓信が集めた兵の軍権を自分の物とし、韓信に僅かの兵を与えて斉を攻略させ、自らは再び南下した。

劉邦と項羽は再び滎陽(広武山)で衝突した。
この時既に楚軍は各地で敗戦を重ねており、かつての勢いは無かったと思われるが、楚軍は無敗の項羽という精神力向上剤のお陰で士気を鼓舞してきたのだ。

項羽も楚軍の衰微状態を良く分かっていたと思われる。
項羽はこの滎陽で決着をつけようとした。
項羽は陣の前に出て、「天下が疲弊しているのは、我々二人が争うからである。漢王と一騎雌雄を決しよう!」と叫んだ。
力で項羽に勝てるはずはないと思った劉邦は、「知恵で勝負したい」と言い返した。
劉邦自身には権変の才は無くても、漢陣営には張良、陳平を筆頭に知恵袋的な人物が多く存在していた。
しかしこれは武を頼む項羽が受けるわけはなかった。

項羽と劉邦が広武山で対陣している時、韓信は斉を完全に平定した。
そこで韓信は劉邦に使者を出し、「仮の斉王になりたい」という主旨を伝えさせた。
劉邦は怒って韓信を攻めようとしたが、張良が反対して韓信を斉王にする事を薦めたので、劉邦は韓信を斉王に任命した。

韓信の勢力を恐れた項羽は、配下の竜且に命じて韓信を討伐に乗り出す。
ところが、この竜且が韓信の奇策「背水の陣」の前にいとも簡単に敗れてしまった。項羽は韓信の実力を知って、韓信に「共に漢を攻めよう」と使者を送った。ところが韓信はこれを一蹴した。

劉邦と項羽は長い間、対陣し続けた。
漢軍は関中という肥沃な領土を背景に、相国の蕭何 が食糧を十分に輸送していたので食糧に困る事はなかった。
それに引き換え楚軍は食糧供給部隊が、漢軍の別働隊に悩まされ食糧を輸送する事が困難になってきた。そして終に楚軍の食糧が尽きてしまう。

話は大分前に戻るが、項羽が彭城を劉邦から奪い返した時、劉邦の家族は項羽の捕虜となっていた。
劉邦は広武山で対陣している時、家族を還してくれるように項羽に頼んだ。しかし項羽はそれを承知しなかった。
そこで劉邦は鴻溝の地を中心に、大陸を楚漢で二分する一時的な和平案を提示した。
項羽は食糧尽きた自軍の状況を良く分かっていたので、これに同意し、劉邦の家族を還した。

項羽はこの和平案が成立すると西へと兵を率いて戻っていき、劉邦もまた兵を率いて東へ帰ろうとした。
ところが陳平と張良がこれを止めて、「楚軍は戻れば食料得て力を戻すでしょう。そうなれば漢は楚に勝つことはできません」と言った。
このことで劉邦は項羽を追撃する事に決めただった。

劉邦は韓信、彭越と期日を決めて項羽を討つ段取りを決めた。そして漢の5年、漢は再び楚への攻撃を開始した。
しかし約束した韓信たちが来なかった。
韓信達が来なかったのは、楚を滅ぼした後、漢の中にある自分達の地位に不安があったから。
そこで劉邦は韓信に以東の領土を、彭越に睢陽から穀上に至るまで領土を与えると使者を出した。

韓信、彭越等その他の諸侯は垓下に集結した。
項羽は垓下に塁を築いて守った。先方の韓信の軍は30万、項羽の軍は10万余。これぐらいの兵力差なら項羽は、別に平気だったであろうが、兵士の士気は全く違っていた。
楚軍は食糧も無く、漢軍に何重も包囲され、楚軍の中に漢に寝返った者を多数いた。

これには意気の強い項羽も、流石に勝つ事は出来ないと悟った。
そして韓信が投降してきた楚軍に楚の歌を歌わせ、楚軍の士気を削ろうとした。(四面楚歌)
項羽は「楚軍は皆、漢に降伏してしまったのか」といって悲しんだ。

同族意識の強い項羽は信頼していた楚軍の裏切りに悲歌を口外した。
項羽は部下と八百の兵を率いて脱出し、南に逃亡した。
夜が明けると、項羽が逃亡した事に気が付いた漢軍は、兵5千から成る騎兵隊を編成し項羽を追撃させた。

項羽は揚子江まで逃げ延びた。
そこの亭長が舟を用意して項羽を逃がそうとしましたが、項羽は、「天が私を滅ぼそうとしているのに、逃れる事は出来ない。私の馬は一日千里を走る名馬である。殺すに忍びないので、貴方に差し上げよう」と言った。
そして項羽は漢軍の追っての中に入って、斬り合い、最後に幼馴染の呂馬童に、「漢王は私に多くの褒賞を賭けているそうな。お前は俺の幼馴染だ。首をくれてやろう」と言って自殺した。
項羽は体は褒賞を求める小人によってバラバラに引きちぎられた。この時、項羽の死体を巡って死者すらでたそうだ。

こうして8年に及ぶ楚漢戦争は終結したのだった。