1606~1645年
中国、明末の農民反乱の指導者。米脂(陝西(せんせい)省)の人。
1628年、陝西地方に大飢饉が起こると反乱に加わってその首領となり、各地を転戦して、43年には新順王を称し、西安を占領。翌年、北京を攻略して明を滅ぼすが、呉三桂の攻撃に敗退、湖北で殺害された。
|
1612~1678年
中国、明末・清初の武将。
初め清軍に対立。明が滅ぶと清に降り、清軍を北京に導き平西王に封ぜられ、清の中国統一に功をたてた。のち雲南に駐し、三藩の乱を起こして帝位に就いたが、病死。
|
1624~1662年
明の復興を目指した武将。
母は日本人で、自身は長崎の平戸で生まれる。父の鄭芝竜は明の武将であり、明滅亡後も再建を掲げて清と戦っていた。
芝竜は、やがて清に降伏したが、鄭成功は戦いを続け、台湾を支配し、日本やイギリスと貿易を行い海上で大きな権力を振るった。しかし、鄭成功が病死した後、彼の孫の代になって清に降伏した。
|
太祖ヌルハチの14男。
太祖は彼の資質を愛して、後継者にしたいと考えていた。
しかし父の死後、兄の太宗(ホンタイジ)が即位したため、保身につとめた。
1628年、太宗に従って出征し蒙古を討ち、太宗が即位すると和碩叡親王に封ぜられた。
1643年、太宗が崩じると、太宗の第9子のフリン(順治帝)を擁立し、自身は摂政となった。
翌年、山海関を越え、李自成軍を駆逐して、北京に入城。その後も、反清勢力を掃討し、清朝の基盤を固めた。
|
清朝末期の政治家。
英国の経済的な戦略で中国に阿片(あへん)が蔓延するなか、阿片追放を目指す8代目皇帝・道光帝の命を受け、欽差大臣として広東に赴く。
西洋研究を進めると同時に阿片に対して断固たる処置をとる。
しかし強硬に取り締まったため、怒ったイギリスはアヘン戦争を引き起こした。
|
清朝末期の宗教家。広東省の出身。
太平天国の乱の指導者でもある。
役人になろうとして科挙に失敗し,自分をキリストの弟と信じて上帝会をつくった。
これが弾圧されると1851年に兵をあげ,反清朝と財産・男女の平等をかかげ,太平天国の国号をたて,自分は天王を名のった。
1853年に南京を占領し,ここを首都とし自分の宮廷をつくったが、その後清朝に攻められ,陥落直前に病没する。
|
1811~1872年
清の政治家・軍人。
19世紀中ごろ、洪秀全が太平天国の乱を起こすと、故郷で反乱軍と戦うための軍隊を作った。曽国藩の軍は湘軍と呼ばれ、太平天国の乱をおさめるのに大きな働きをした。
また、ヨーロッパの近代技術を中国に取り入れる運動(洋務運動)を起こした。
|
1823~1901年
清の政治家・軍人。曽国藩の部下。
ヨーロッパの近代的な兵器を使って、太平天国の乱を破るのに活躍した。その後、外務大臣となり、諸外国との通商や外交に活躍。
また、曽国藩の洋務運動を受け継ぎ、多くの工場を建てて鉱工業の発展に努力し、近代的な軍隊を作った。日清戦争では海軍を率いたものの、日本に破れ、清の全権大使として下関条約に調印した。
|
道光帝(8代目皇帝)の第6子。諡は忠。
幼い頃から聡明で、刀槍・詩歌と文武に優れていたが、兄の奕詝の方が優しさがあったため後継者に定めた。
1850年に奕詝が咸豊帝として即位すると、奕訢は恭親王に封ぜられた。
アロー戦争中の1860年、イギリス軍が北京に迫ってきた折に屈辱的な不平等条約の締結当事者となったため、排外主義者からは「鬼子六」(洋鬼子すなわち西洋のばけものとつるむ六男坊)というひどいあだ名をつけられた。
1861年の咸豊帝の死後、西太后・東太后と結んでクーデターを起こし、宮廷内の権力を握った。
|
1835~1908年(道光15~光緒34)
咸豊帝の側室。エホナラ氏の出身。
幼少にして五経を誦し、廿四史を読破。才色兼備の女性であったという。
18歳で咸豊帝の後宮に入り、帝の寵愛を受け同治帝を生み、皇后に次ぐ妃の位につく。同治帝が幼少で即位すると、奕訴と結んで政権を握った。
曽国藩・李鴻章らの協力を得、同治中興の安定期を導き出した。
同治帝の没後、妹婿の子を光緒帝に立て、宮廷の官僚と結び引きつづき政権を握った。以後日清戦争では李鴻章を用い極力開戦を避け、1898年(光緒24)の康有為らの戊戌変法では改革派を弾圧して光緒帝を幽閉した。
1908年(光緒34)光緒帝の死亡した翌日、没した。
女帝・西太后の実像 についてもっと詳しく!
|
1812~1885年
清の軍人・政治家。
曽国藩に従って義勇軍を作り、太平天国の乱を討つのに活躍。その後、清朝内で大きな力を持つようになる。
同治帝の時代に西北地域でイスラム教徒の反乱が起こると、これを約10年かけて平定。1884年の清仏戦争においては清軍を率いて戦ったものの、講和を結んだ後、病死した。
|
1858~1927年
清の政治家。
37歳のとき科挙に合格し、国の政治の改革を唱える。
1898年、光緒帝に認められて議会政治を目指す改革を始めたが、西太后らによってわずか三ヶ月あまりで弾圧され、日本へ亡命した。(戊戌の政変)清の滅亡後は、清朝再興を目指して運動を行うが、果たせず病没する。
|
字は慕鴻。清の宣統帝(溥儀)の皇后。
満洲正白旗の出身。
1922年、溥儀に嫁ぎ皇后となるが、その2年後、馮玉祥により紫禁城を追われ、皇后号を剥奪された。
溥儀が満州国皇帝となると婉容も再び皇后となったが、アヘン中毒と日本人嫌いのため、公式の場にはほとんど姿を見せなかった。
日本の敗戦後、溥儀が日本への亡命を企て逃亡した後、嵯峨浩らわずかな親族や従者と共に取り残された。
中国共産党軍に逮捕され各地を転々とした後、吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のため、孤独の内に死亡。
悲劇の皇后・ラストエンプレスともいわれる。 |