女帝・西太后の実情


東西太后の成立を可能とした清の後宮制度

西太后は1835年、満州人の中堅官僚の家に生まれた。
日本の福沢諭吉や土方歳三と同年の生まれである。
咸豊帝(清朝9代目皇帝)の妃だった彼女は、同治帝・光緒帝の二代に渡り皇太后として君臨し、皇帝を抑えて権力をほしいままにした。 亡くなったのは1908年で、清朝滅亡の3年前であった。
 
中国人は、今日に至るまで、法治により「人治」が優先する国である。過去の王朝の制度も、先祖伝来の慣習である「祖法」にのっとっていた。 この場合の「法」は西洋的な成文法ではなく、「しきたり」くらいの意味である。
男尊女卑だった中国では、もともと、女性が国政に関与することは禁じられていた。 それなのになぜ西太后は、最高権力者となれたのか?
この逆説を解いていくと、清朝ひいては中華帝国がもつ本質的な欠陥も見えてくる。  

秦の始皇帝から始まる歴代の中華帝国の中でも、最後の清朝の制度は、高度に完成されていた。
唐や明は宦官の勢力が強くなりすぎて衰亡したが、清は宦官の政治関与を死刑を持って禁じた。 元は漢民族の知識人を活用できず早く滅んだが、清は科挙制度や出版事業を通じて知識階級層を完全に取り込み、長期安定政権となった。
清の最盛期においては、これらは大きな効果をあげた。 だが国力衰退期に入ると、こうした「過剰適応」の祖法が逆にネックとなりはじめた。
この構図は、高度成長期の日本の強みが、そのまま平成不況ではネックとなって改革を難しくしているのと似ている。  
西太后がいかに女傑でも、生まれた時代がもし清朝でなければ、台頭することは出来なかっただろう。
彼女は美人でも名門の出身でもない、普通の女子だった。 が、清朝の祖法のおかげで、皇帝の妃になることができた。 そして自分が最高権力者になった後は、祖法を利用しつつ、「非常時」を口実に巧みにこれを捻じ曲げていったのである。

話を彼女の生い立ちに戻すと、姓は「葉赫那拉(エホナラ)」、幼名は蘭児。 父親は、清朝の中堅官僚であった恵徴であった。(恵徴の姓はエホナラであるが、満州人の習慣で通常は個人名のみを書く。ラストエンペラーこと溥儀をいちいち「愛新覚羅 溥儀」と書かないのも同じ理由。)  
父の恵徴は、平凡だが真面目な役人だった。 彼の最終官職は安徽寧池太広道の「*道員」だったが、赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により1853年に異郷で病死した。
(*)地方の行政を司る官職  
西太后は1852年、数え17歳のとき、紫禁城で、后妃選定のための面接試験「選秀女」を受けて、新しい皇帝(咸豊帝)の妃の一人に選ばれた。 絶世の美女でも名門でもない彼女が選ばれたのは、清の祖法のおかげである。  
過去の歴代王朝、特に唐と明では、皇帝は「色」を好み、女子の品徳よりも容姿を重んじて后妃を選んだ。そのため、唐の武則天や明の萬貴妃のように、しばしば美女が国政を牛耳る事態が発生した。
清の祖法では歴史の教訓にかんがみ、后妃を選ぶ「選秀女」という面接試験を行い、女子の品徳や知性で后妃を選ぶことにした。 有力氏族の娘や美女は、わざと后妃候補からはずされた。  
聡明な母親から生まれた清の歴代皇帝は、明王朝の愚帝や珍帝にくらべると、ずっとまともであった。 その反面、清朝では乾隆帝の香妃(イスラム系の美女)のような例外を除き、美女の后妃はあまりいない。
光緒帝の珍妃の肖像写真は美人だが、当時の写真の常として、かなり修正が施されている可能性が高い。  
少女時代の西太后が選ばれたのは、彼女が平凡だが真面目な中堅官僚の娘であり、かつ、とびきりの美女でなかったからである。  
皇帝の后妃には、厳密な序列があり、それぞれ定員が決まっていた。
正妻である皇后(1名)は、后妃の中でも別格の存在で、後宮のいわば主人であった。 この下の側室は上から順に、
・皇貴妃(1名)
・貴妃(2名)
・妃(4名)
・嬪(6名)
・貴人、常在、答応
の7階級があった。
皇貴妃は、本当は皇后になってもおかしくない妃のための臨時の地位で、通常は空席にしておく。 定数があるのは、正規の側室たる「妃嬪」までで、貴人以下には定数がない。
「常在」や「答応」は、その名称が示唆するごとく、わが国でいえば「更衣」(天皇のお着替えに従事する)や「御息所」(天皇の寝所にはべる)にあたるいわば幕下の側室で、これになるのは下級旗人の娘に限られた。  
清の後宮の規模は意外に小さく、江戸城の大奥とさして変わらなかった。 唐の白楽天は漢詩『長恨歌』で「後宮佳麗三千人」と詠んだ。
過去の王朝では、数千人の側室を抱える皇帝もおり、国力衰退の一因となった。  
清の皇帝はこれを合理化して、側室の人数を多くても数十名程度に抑えた。 その結果、宮中で働く宦官の人数も数千人程度に減り、そのおかげで唐や明のように宦官が国政を壟断する事態は、清朝一代を通じて一度も起きなかった。  

西太后は中流旗人の娘だったので、通例通り最初は「貴人」からスタートして、ほどなく「嬪」に昇進した。
そして1856年、彼女は咸豊帝の長男(後の同治帝)を生んだ功績により、即日「貴妃」に昇進した。 皇后に次ぐナンバー2の地位である。
もし西太后の生んだのが女子であったら、彼女は咸豊帝の死後、他の側室たちと同様に、紫禁城の片隅の寡婦院に籠もって毎日、布の花を作りながら長い余生を送ったはずである。まさに「運も実力のうち」である。  
咸豊帝の皇后ニュウフル氏も、普通の役人の娘で、おとなしい女性だった。 彼女が皇后になれた理由は「先着順」である。 彼女は咸豊帝がまだ普通の皇子であったころから彼に仕えていた。  
皇后は結局、咸豊帝の子を生めなかったが、正妻である彼女は儒教の論理により、次期皇帝の「嫡母」となることを約束されていた。 次期皇帝の生母である西太后は、ついに皇后にはなれなかった。


皇太后は”母后”と”生母”の二人いた

嫡母と生母の格差は大きい。日本でも、大正天皇の生母である柳原愛子(なるこ)は、皇族に入れてもらえなかった。
当時の社会通念では、大正天皇の母はあくまで嫡母ーすなわち明治天皇の皇后たる昭憲皇太后だったからである。  
中国でも、事情は同様だった。
明では、太祖・洪武帝が、「皇后が生んだ嫡子だけが次の皇帝になれる」という祖法を決めた。そのため、彼の息子である明の第三代の永楽帝は、自分の生母の存在を抹殺し、自分は嫡母(洪武帝の皇后)の実子であると言い張らねばならなかった。
永楽帝の生母は「高麗貢女」(朝鮮半島から献上された処女)で、出自が低かったからである。
後の歴代の明の皇帝も同様で、自分の生母が父の皇后でなかった場合はその存在を抹殺したり、自分の皇后が男子を生めぬと別の妃と取り替えるなど、非人道的な事例が続出した。  
清の祖法では、この反省から、新帝の生母の地位を大幅に向上させた。
新帝の嫡母と生母が別人の場合、嫡母は「母后皇太后」、生母である側室は「聖母皇太后」と呼ばれ、二人とも「皇太后」として尊ばれた。 清の歴代皇帝の生母の大半は側室であったが、清の優しい祖法のおかげで、息子が新帝となった後も大切にしてもらえるようになった。    
1861年、咸豊帝が死去すると、西太后が生んだ同治帝が、数え6歳で即位した。 咸豊帝の正妻であったニュウフル氏と、新帝の生母である西太后はともに皇太后となり、それぞれ「東太后」「西太后」と呼ばれるようになった。
儒教の倫理では、嫡母たる東太后の地位のほうが上だったが、実際には性格が勝気で頭の回転が速い西太后のほうが主導権を握った。