中華人民共和国




毛沢東指導下の中国 
1949年 10月 1日中華人民共和国政府を北京に建てて、毛沢東を国家主席、周恩来を首相とする「中華人民共和国」が北京に誕生した。
1950年、ソ連との間に中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれた。
その影響で1953年頃より社会主義化が進み、人民政治協商会議に代わって全国人民代表大会が成立、農業生産合作社が組織された。
建国後 、1955~1959年の時期は新しい変革期にあたる。
毛沢東は、実用主義路線に反対しながら大衆路線を強化し始めた。
市中心の工業化引き続きに反対し、国の工業化以前に農業集団化を推進することを主張して大躍進運動を展開した。
そして官僚主義化された党を批判して、党は人民によって絶え間ない批判の対象にならなければならない、と力説した。
これによって中国農村の 99% 以上が集団的な人民公社に再編された。
しかし農業生産力は下落したし、自然災害で中国経済はとても難しい地境に処するようになった。
結果的に、社会主義のイデオロギーを優先視した毛沢東の農業集団化政策は失敗で終わリ、共産党内の路線葛藤がまた現われた。

彭徳懐は毛沢東を批判して鄧小平劉少奇と連合し、人民公社を縮小して自作経営を伸ばし、急進的な政策を緩和させた。
少しの間、実用主義路線が強化されることとなったが, 以後はまた社会主義理念及び思想への武装を強調した、いわゆる「文化革命期」が渡来した。

毛沢東は劉少奇との政策論争を通じて、劉の路線には社会主義体制を否定し資本主義的思想が残存している、という点を批判した。
そして軍部の林彪と連帯して、社会主義革命の完遂のために思想の改造を成さなければならないと主張し、反撃を試みた。

毛沢東は 11全中会で <無産階級文化大革命に対する決定>という文案を通過させ、青年大学生を中心に結成された紅衛兵を先に立たせ文化革命を推進した。
紅衛兵たちは共産党内ブルジョア的要素を追い出すための下方運動と、旧時代的文化遺産除去運動を主導した。
文化革命には毛沢東の妻・江青 など 4人方も力を合わせた。
革命期間中、毛沢東の路線に反対するリーダーたちは皆批判の対象になり、毛沢東と群衆の間に置かれた公式機関は皆不信と批判の対象になった。
 
文化革命の弊害はとても大きく、1970年代初には毛沢東と林彪の連帯が崩れていったため、軍部の力が弱くなり、政府は政策の転換よりは文化革命の弊害を収まるのに力を注いだ。
文革初期の急進派たちが得勢する様相が弱化されだし、周恩来と同じ中道派が代わって権力を握るようになった。



◆鄧小平時代~の中国
1973年4月、鄧小平は副総理として復活を果たす。
1976年4月には再び失脚するが、同年9月に毛沢東が死亡すると、党長老と軍の強い後押しのもと、翌
77年中国の実権を握る。
江青など 4人組は、文化革命期間中の罪目に処刑されたし、実用主義的指導者たちが大挙復帰した。

1978年 3中全会で鄧小平は改革の開放路線を採択しながら中国式社会主義への急激な変化を追い求めた。
以後から現在まで中国は安定的な実事求是型の政策を中心に発展を追い求めるようになった。

1980年代にも持続的な実用主義的経済路線は (黒猫白猫論: 黒い猫でも白い猫でも鼠を良く捕まる猫が良い猫だ)に象徴される鄭小平の思想によって進行された、1980年代から 2000年代初盤まで政治理念よりは経済にもっと重点を置くことで、中国政治の実勢になった上海邦によって推進された。
ところで改革, 開放が加速化されながら改革と開放の速度に対する論争が触発されたし、 不正腐敗に反対して政治的自由主義を主張する学生、 知識人の反対運動は、1989年 6月の天安門事件で現われた。
この事態は結局保守派によって無力鎭圧で終わったが, 当時の総書記である趙紫陽は失脚するようになった。
後任として小平に江沢民が党総書記に抜擢された。
1990年、鄧小平の最後の公職だった国家中央軍事委員会の主席を引き受けることで、江沢民は経済官僚によって党と政府の全権を掌握した。

江沢民は 2002年 党総書記、2003年 国家主席、2004年 党中央軍事委員会主席、2005年 5月には国家中央軍事委主席の席を胡錦涛に譲り、政権入れ替えが成立した。
これによって登場した胡錦涛 総書記と、温家宝総理体制は ”成長優先論者”( 特に上海を中心にした東部沿岸地域中心の成長を優先視する政策を好む先富論者 勢力)たちを沒落させて、中国全域にかけた成長を重視する分配を強調する、和調社会の政策を打ち出し得勢する姿を見せている。