中華民国


〜辛亥革命の成功で清が滅亡〜

日清戦争に敗れた清朝は列強による分割が一段と進み、衰退の一途をたどっていた。
朝廷は立憲君主制をめざして科挙を廃止し、国会開設を公約するなど、いくつかの改革を試みたが、結局は満州族中心の内閣しかできあがらず、近代化を望む人々を失望させただけだった。
しかし、海外に飛び出して国際情勢に目覚めた華僑や留学生たちは、満州族中心の朝廷による改革は無理と判断し、清朝を打倒して漢民族による共和政府を樹立しようとする革命運動が巻き起こった。
その中心となったのが孫文である。

ハワイで教育を受けた孫文は、日本の民主主義者・宮崎滔天(みやざきとうてん)らの協力で各地の革命結社を糾合し、東京で中国革命同盟会を結成した。
1911年、清が外資投入による民営幹線鉄道の国有化方針を打ち出すと、外国資本を買い取る利権回収を地道に続けてきた民族資本化は激怒し、増税に苦しむ労働者も憤り、ついに四川で暴動に発展する。
四川暴動をきっかけに、武昌(湖北省)の新軍が蜂起して清朝からの独立を宣言すると、革命の熱波は燎原の火のように各省へ広がり、1ヵ月後にはほとんどの省が独立を宣言した。これをこの年の干支にちなんで「辛亥革命」という。
翌12年1月革命派は孫文を臨時大総統に選び、南京で「中華民国」の成立を宣言した。
これに対して、清朝は北洋新軍を率いる軍閥指導者・袁世凱を派遣して革命派の鎮圧にあたらせる。
しかし、袁世凱は混乱に乗じて”皇帝に代わり独裁者にのし上がろう”という野心を持っていた。
袁は清朝の思惑に反して革命派と交渉し、自らの臨時大総統就任と引き換えに宣統帝・溥儀の退位を認めたため、ここに清朝は滅亡した。
それと同時に、秦の始皇帝以来続いてきた皇帝による王朝支配体制も終わりを告げることとなった。



軍閥が支配した中華民国
革命派を糾合した国民党は、中国初の国会選挙で第一党を獲得したが、臨時大総統に就任した袁世凱は、列強から資金を借り集め、国民党を弾圧し始めた。
袁の意図に気づいた国民党は武装蜂起を試みるが鎮圧され、袁は13年に正式の大総統に就任する。
更に彼は皇帝の地位も狙ったが、さすがにこれは内外から強く反対され、結局、野望を果たせずに16年に病死した。

中華民国は独裁者の誕生は防いだものの、革命派は理念に応じた実力を兼ね備えてはいなかったため、その後も大総統の地位は軍閥指導者によって占められ、しかも、各地で実力を蓄えた軍閥が互いに抗争するなど、まるで群雄割拠の時代のように不安定な軍閥政権時代に入っていった。



中国共産党と抗日戦線
第二次大戦がおこる1939年以前の中華民国では、孫文の指導で国民党と共産党が提携する「第一次国共合作」を成立させるが、孫文の死去後、国民党内で共産党と結ぶ左派と、蒋介石を指導者とする右派に分かれて激しい抗争が繰り広げられた。
日本の大陸進出に対し、各地で抗日運動が広がりを見せる中、蒋介石は共産党との内戦に傾倒した。
劣勢となった共産党の紅軍は陝西省北部の延安まで退き、この地で指導者の地位を確立した毛沢東は、内戦の停止と抗日統一戦線の結成を呼びかけた。(1953年)
翌年、蒋介石が張学良によって監禁された 「西安事件」をへて、「第二次国共合作」がすすめられた。
そして1937年には、盧溝橋事件をきっかけに、日本との間で8年にわたる泥沼のような日中戦争がおこった。



第二次世界大戦後に誕生した「二つ」の中国
1945年、日本が無条件降伏し、国連が発足すると、中国は常任理事国入りして重要な地位を占めるようになった。
48年、蒋介石(国民党)が中華民国の総統になったが、戦前から統一国家のあり方について対立してきた共産党との内戦が再発する。
アメリカから物資援助を受けた国民党は、初めは優勢だったが、やがて、地主の土地所有を廃止して農民の支持を受けた毛沢東の率いる共産党が優位に立ち、49年10月、毛沢東を国家主席、周恩来を首相とする「中華人民共和国」が北京に誕生した。
敗れた蒋介石は台湾に逃れた。

中国新政府が50年にソ連と「日ソ友好同盟」を結ぶと、アメリカは第七艦隊(太平洋艦隊)を派遣して台湾防衛に当たらせる。
東西冷戦の一端がここにも現れたわけである。
アメリカが蒋介石を支持したため、国連の議席は中華民国の国民政府が維持したままで、この時点では確実に「二つの中国」が存在していたことになる。
その後、1971年に中国が台湾に代わって代表権を回復し、政府の公式の見解としては、「二つの中国」は存在しないことになっている。
しかし、独立を目指す台湾と中国の関係は、日本の外交も絡めて現在も微妙な問題となっている。