大清帝国 目次

1616~1662年*満州族の清の建国と明の抵抗
1661~1820年*康煕帝・雍正帝・乾隆帝3代の最盛期
1820~1850年*アヘン戦争
1850~1864年*太平天国とアロー戦争
1861~1885年*洋務運動
1885~1895年*朝鮮をめぐる戦い(日清戦争)
1895~1901年*義和団事件
1901~1911年*清朝の改革と革命運動の展開
1911~1916年*中華民国の建国~清朝の終焉




◆◇満州族の清の建国と明の抵抗◇◆    1616年~1662年
中国東北の女真族は、12世紀に金を打ち立てるが、その滅亡後はモンゴルや明の支配下に甘んじていた。
その中で 
①ヌルハチ が1583年挙兵し、建州女直(明では女真を女直と呼んだ)五部を統一、さらにその北の海西女直をほぼ併合し、居城ヘアトラを築く。
これに危機感を覚えた明はヌルハチを圧迫、対するヌルハチは明との対決を決意。1616年、ハンの位につき後金を建国した。
ヌルハチは「
サルホの戦い」で明軍を撃破し、遼東地方を手中にするが、1626年、遼西以南への進出を図っていた際に敗れ、まもなく亡くなった。

ヌルハチ没後、ハンの位を継いだ
 ②ホンタイジ は、1635年、満・蒙・漢の上に立つ皇帝として即位、国号を清とし、民族名も正式に満州とした。
明では1628年、飢饉をきっかけに
王嘉胤が反乱を起こす。乱は部下の李自成張献忠に受け継がれ華北各地に広がる。
このうち李自成は1644年、西安で大順国を建て北へ進撃、北京を陥落させ
崇禎帝を自殺に追いやった。 この時、長城の東端で清に対する防衛にあたっていた呉三桂は、前年に即位したばかりの ③幼帝フリン(順治帝) と、叔父で執政王だったドルゴンに援軍を要請する。
清軍は李自成を破り北京に入城し、李自成は南方へ逃亡し捕らえられ殺された。 そして清は北京に遷都、明を継ぐと宣言し中国全土の平定を進め始める。

南京では万歴帝の孫の
福王が擁立されたが、1年で清軍に破られる。
これを機に、清は漢人にも辮髪を強制する命令を出した。

明の王族は各地で次々に擁立された(=南明王朝)が短命で、唯一長続きした
桂王もビルマに逃亡後に呉三桂によって殺された。 南明政権のうち、福建に拠った唐王に臣従した鄭芝竜の子・鄭成功は、父の投降後も拠点をアモイに移して抵抗し、一時は南京に迫った。
清はこれを圧迫、鄭成功は台湾からオランダを追い出し、そこを拠点に抵抗を続けた。
一方、清に早期に投降した東北出身の漢人軍閥である呉三桂(平西王)・
尚可喜(平南王)・耿継茂(靖南王)ら三藩は、南方平定に差し向けられその地で勢力を築くが、後に清に圧迫され反乱を起こした(三藩の乱)。




◆◇康煕帝・雍正帝・乾隆帝3代の最盛期◇◆
    1661年~1820年

④康煕帝 は親政を始めると三藩の廃止を企図したので、1673年に三藩の乱が起こるが、呉三桂の死後の1681年に乱は平定された。
また、台湾の鄭成功も1683年に降伏、清は中国史上初めて台湾を領有する。
康煕帝は、この頃勢力を伸ばしてきたロシア帝国と条約を結んだり、モンゴルのガルダン・ハンを破り外モンゴルを勢力下に置いた。
さらにチベットに侵入したジュンガル部を討って、その地も支配下にした。

⑤雍正帝 は即位すると、皇帝の後継争いに終止符を打った(太子密建の法を確立)り、皇帝の独裁体制を強化した。
また、ロシアと条約により北部の国境を決め、この地に交易市場を開設したため、清朝における国境貿易は盛んになった。

清朝は
⑥乾隆帝 の代に最盛期を迎える。 1758年にはジュンガル部を最終的に滅ぼし、さらに東トルメキスタンの回部も支配下に入れ新たに境域に加えた。 内陸部は清の藩部となり、理藩院によって管轄された。
また乾隆帝は、ビルマ・台湾・ベトナム・ネパールなど10を超える大規模な外征を行った。

乾隆帝が退位して
⑦嘉慶帝 が即位すると、白蓮教徒の乱が起こり、10年続いた。
また、乾隆帝の死後、寵臣だった
和珅を失脚させたが、その膨大な財蓄が明らかとなった。



アヘン戦争
    1820年~1850年
清朝では、18世紀後半より対外交易の窓口を広州一港に限定し、特権商人の公行を通じて貿易を管理した。
欧米諸国との貿易も、あくまで清朝への朝貢貿易への形式がとられる。
自由貿易を望んだイギリスはマカートニー、次いでアマーストを使節として派遣するが、成果はなかった。

その頃イギリスでは、紅茶を飲む習慣の普及により茶の需要が高まり、毎年清から輸入したが、決済手段として銀が大量に中国に流出した。この銀に代わるものとして、密貿易によりインド産のアヘンが中国に輸出されだした。
これにより産業革命によって生産が開始された綿織物をインドに輸出することも可能となり、こうしていわゆる「
三角貿易」が形成される。 アヘンの輸入は年々増加し、また1827年を境に、銀の流入が流出に転じたことで、銀の銅銭に対する交換レートが高騰し、税を銀で収める清朝で社会的・経済的不安が起こった。
⑧道光帝 はアヘン取引を禁止し、林則徐を欽差大臣に任命してこれの取り締まりに当たらせた。
イギリスの貿易監督官・エリオットは、この取り締まりにより同胞の生命と財産が脅かされたとして本国に援軍を要請し、1840年初頭、英国政府は艦隊派遣を決定、議会もこれを承認する。
この年の夏、到着した英国艦隊は防衛が強化された広州近辺を素通りし北上、華中の舟山列島を占領し、一部は華北に向かい天津に迫った。 艦隊が首都近辺に現れたのに驚いた宮廷は林則徐を罷免し、和平派の
琦善に広州で交渉にあたらせる。
譲歩を重ねた琦善の報告に道光帝は激怒しこれを罷免、交渉は決裂し、手薄となった広州一帯は攻撃された。
このとき、広州西北近郊の三元里で英軍の横暴に対して平英団を組織した民衆抵抗も起こるが、北上した艦隊は南京に迫ってきたため、1842年8月、清は屈服し
南京条約を結んだ。

この条約で清は香港島の割譲、上海など5港の開港、公行の廃止による自由貿易、賠償金の支払いを認め、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認などを余儀なくされた。
ただ意外にも戦争の原因となったアヘンについては特には触れられなかった。
この戦争の発端となった恥ずべき原因を文書上に残すことをイギリス側が躊躇したためである。 このイギリスと清との不平等条約に他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約などが結ばれている。

こうしてイギリスのアヘン貿易を守るための戦争は、清の開国という結果をもたらした。





太平天国とアロー戦争    1850年~1864年
19世紀前半、清朝の地方行政の腐敗や非能率、アヘン戦争後の経済混乱による社会不安に対し、人々は生活を守るため自衛的相互扶助組織に頼る傾向が強まる。 こうして太平天国の乱を機に清に対する反乱が起こった。
1850年、広西省の金田村に終結した信徒は挙兵し、翌年、
洪秀全は「天王」として即位、国号を「太平天国」とし、北方への進軍を開始する。そして1853年、南京を陥落させ天京とし、首都とした。
太平天国は徹底した平等主義をとり、財産を共有とし、農民全てに土地を平等に与える理想社会を目指した「天朝田畝制度」を発布、女性の「纒足」の禁止などの製作も行うが、一方で王朝的性格を強める。

1855年に北京への北伐軍は壊滅、56年には北王が東王を暗殺する
天京内乱が起こる。
アヘン戦争後もイギリスでは、清への綿製品などの輸出は期待したほど伸びず、懸案となった。
1856年10月、広州の珠江に停泊中の香港籍のアロー号が海賊容疑で清朝官憲の臨検を受け、中国人船員12名が逮捕された。(
アロー号事件)。 その際の英国国旗に対する侮辱事件を口実に、英国政府は懸案の一挙解決を目指し、広西での宣教師殺害事件の報復を望むフランスと共同出兵する。 英仏連合軍は広州を占領しさらに北上、天津に迫った。
清はこれに屈し、1858年、天津条約を結び、開港場の増加、各国公使の北京駐在、キリスト教の信仰・布教の自由、外国人の旅行の自由などを承認、 ロシアとも同時期愛琿条約を結ぶ。

その後、強硬となった清朝は、批准書の交換に来た英仏公使に対し砲撃し、これにより戦闘が再開され、英仏軍は1860年、北京に進撃、首都を占領し
円明園を焼く。 清朝は各国と北京条約を結び、イギリスに香港島の対岸・九竜半島の一部を割譲、ロシアにはウスリー江以東の沿海州を割譲する。
この戦いを
アロー戦争というが、天津条約の付則でアヘンが合法化されたので、第二次アヘン戦争とも呼ぶ。

一方、太平天国は李秀成など若い世代が中心となり、上海を除く江南一帯を一時制圧するが、北京条約後に清朝擁護に回った列強や、ゴードンの常勝軍の活躍などで劣勢となり、1864年、洪秀全の死とともに鎮圧された。






✿ 洋務運動     1861年~1885年
その治世中に太平天国の乱アロー戦争に悩まされた ⑨咸豊帝 が亡くなると、幼い ⑩同治帝 が即位する。
この時、
東太后西太后恭親王奕訢と結んでクーデターで実権を握った。
中でも西太后は、その後も次の 
⑪光緒帝 を立てるなどして、清朝末年に至るまで権勢を振るうこととなる。 対外交渉の窓口としては総理衙門が置かれ、恭親王が初代長官となる。
この時期は内乱が終息、列強も侵略から協力に転じ、内外とも相対的な安定が保たれたので
同治中興とも呼ばれた。

太平天国の反乱後、その鎮圧に活躍した
李鴻章左宗棠などの漢人官僚の主導のもとで、外国から技術を導入して軍需産業を興し、北洋艦隊や福建艦隊を建造するなど、富国強兵を目指す動きが現れる。
これらを洋務運動といい、しだいに軽工業にも進出して近代産業の始まりとなる。 ただし、これらの動きは、”清朝の体制は変えず、西洋の技術だけを摂取すればよい”とする 「中体西用論」 に基づき、また官営・半官半民を主として、民間企業の成長を阻害するなどの限界があった。

19世紀半ば、ロシアは中央アジアを南下、カザフの遊牧集団、次いでウズベクの3ハーン国を支配下に入れる。
同じ頃、ウズベク出身の武将・ヤクブ・ベクは、天山南路で清朝へ反乱を起こし、天山北路にも侵入する。
これに対抗したロシアは1871年、イリ地方を占領、左宗棠がこの反乱を鎮圧した後、両国の懸案となる。 1881年、イリ条約が結ばれ、イリ地方は一部を割譲するも返還され、西部国境が確定した。
南部周辺でも朝貢国ビルマをイギリスが、ベトナムをフランスが支配下に入れつつあった。 1883年、ハノイ周辺の劉永福率いる黒旗軍の攻勢を機に、フランスはベトナムを保護国とする。
清朝はこれを承認せず、翌年
清仏戦争が起こった。 仏艦隊は北上し、台湾の基隆や福州の馬尾を攻撃、清朝は屈してフランスと天津条約を結び、ベトナムの宗主権を放棄する。
この戦いで福建艦隊は壊滅、また10年後の日清戦争で北洋艦隊も壊滅し、洋務運動は完全に行き詰まった。




朝鮮をめぐる戦い(日清戦争)     1885年~1895年
日本では1868年、明治維新により江戸幕府が倒れ、新政府が成立する。
1871年、明治政府は清と対等な形で
日清修好条規を結んだ。これは平等条約であったが、同年の、台湾に漂着した宮古島島民の現地住民による殺害事件を機に、74年に台湾出兵を行う。
その解決過程で琉球が日本に属することを明確にし、79年に琉球処分を行って沖縄県を設置した。
このことで清国内に対日警戒論が高まる。

日本は朝鮮に対しては、1875年の
江華島事件をきっかけに、翌年、艦隊の威圧のもと日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させた。
その後、日本主導のもと外戚にあたる閔氏の政権が改革を進めるが、1882年、軍制改革に不満な兵士が反乱を起こし日本公使館を襲撃、失脚していた大院君を担ぎ出す事件がおこった(
壬午軍乱)。
これに対し清朝に派遣された清軍は大院君を捕らえ、閔氏政権を復活させた。 清の朝鮮に対する影響力は強まり、朝鮮内部では清と結ぶ派閥と日本と結ぶ派閥との抗争が激化し、1884年、清仏戦争を機に日本側の派閥である金玉均らが閔氏政権を倒すクーデターを起こす(甲申政変)。
しかし、
袁世凱率いる清軍に制圧され失敗、金玉均らは日本に亡命した。

朝鮮では1860年頃、西学(キリスト教)の広まりに対抗し、崔済愚(チェジェウ)が儒教・仏教・道教を混合した新興宗教「東学」を創始していた。
1894年春、3代目教主・チョン・ボンジュンに率いられた農民が、地方官の圧制に抗して全羅道で蜂起した(
甲午農民戦争)。 これに手を焼いた朝鮮政府は清に派兵を要請、6月清軍は牙山に上陸した。
日本政府は、これを好機と見て日清間の条約を口実に大軍を派兵、仁川に上陸させる。 この間、朝鮮政府と農民軍の間では和約が成立したが、7月に日本はクーデターで親日政権を樹立させた。
日本艦隊が清の増援軍を乗せた船を豊島沖で撃沈し、日清戦争が始まった。 陸軍も成歓で清軍を撃破、次いで9月の平壌の戦いで勝利する。
翌年2月、北洋提督の丁汝昌が自決したため北洋艦隊は降伏し、戦争は終結した。
戦争に負けた清は4月、日本との間に
下関条約を結び、朝鮮の独立と清の宗主権放棄、遼東半島と台湾・澎湖列島の割譲、賠償金二億両の支払い、などが取り決められた。
遼東半島三国干渉により清に返還されるが、割譲が決まった台湾では一時は共和国を宣言、その後も台湾住民の抵抗が数年に渡って続いた。





義和団事件
  1895年~1901年
日清戦争での敗戦で、列強の中国における利権争奪が激化する。
清は戦争の遂行および戦後の賠償金支払いのため、西欧の銀行から多額の借款をし、これを通じて列強は鉄道敷設権とその沿線の鉱山開発権を獲得した。
1897年、山東省でのドイツ人宣教師殺害事件に対しドイツは膠州湾を占領、翌98年にその地を清から租借した。 ロシアも同様に旅順・大連を占領・租借地とする。
これに対抗し、イギリスも威海衛を租借、さらに香港島対岸の九竜半島全体を99年間の期限付きで租借する。
これにフランスも対抗し、広州湾を租借した。その上で、日本を含め各国は各々勢力圏を設定、清にその勢力圏内の他国への領土の不割譲を宣言させた。
列強による中国分割という様相を呈し始めたので、遅れて参入したアメリカは、翌年国務長官ジョン・ヘイが中国市場に対する「門戸開放、機会均等」を提唱、各国もこれを了承した。

下関条約調印の1895年は3年に一度の会試の年にあたり、北京に挙人が集まってきていたが、康有為はこの機を捉え挙人1200名の署名とともに皇帝に改革の必要性を上書した。 康有為や梁啓超など若手知識人は度重なる敗戦に危機感を持ち、立憲君主制への体制変革と富国強兵を目指す「変法自強」の運動を開始する。
1898年、折からの列強の利権争奪の中、康有為の上書に心動かされた若き光緒帝は改革を決意、6月に変法派を登用、科挙の抜本的改革、近代的学校制度、新式陸軍創設などの詔勅を矢継ぎ早に発した。
この急進改革に対し混乱が起こると、9月保守派はこの機をとらえてクーデターを画策、
西太后光緒帝から実権を取り上げ、変法派を処刑、康有為らは日本に亡命し、変法は3ヶ月で失敗した(戊戌の改変)。

北京条約でキリスト教の布教が公認されると、中国内地に宣教師の活動が広がり、それに比例しトラブルも各地で頻発する。
山東省では、ドイツの利権獲得以来、反キリスト教運動(仇教運動)が激化した。その主体は大刀会や武術を修練した義和拳などの結社で、99年山東省巡撫(省長)の黙認のもとで活動が活発化し、「扶清滅洋」を叫ぶ義和団となる。
親任巡撫の
袁世凱はこれを弾圧するが直隷省(現河北省)に飛び火した。
1900年6月、大挙北上した義和団は、天津、次いで北京に入城し、紫禁城東南の公使館地区を包囲する。これを好機ととらえた清朝は、列強に宣戦布告した。
これに対して、ドイツ・日本・イギリス・アメリカ・フランス・ロシア・オーストリア・イタリアの8カ国は、連合軍を組織し共同出兵、8月に北京を占領し義和団を粉砕した。
西太后らの宮廷は西安に逃亡、北京は略奪される。
翌1901年、清朝は列強と
北京議定書を結び、半植民地的な地位が決定的となった。



清朝の改革と革命運動の展開     1901年~1911年
列強に宣戦布告し大敗を喫した清朝は、さすがに改革の必要性を悟り、1901年1月、変法を行う上論を改めて発した。
地方総督の張之洞、劉坤一らによる首唱により、西洋的陸軍の新軍の創設、実業の振興、近代的学校制度の創立、海外への留学生派遣などが進められる。
さらに、日露戦争による日本の勝利に刺激され、憲法に基づいた立憲政治を求める声が高まる。
立憲派の主体は、紡績業などを中心に勃興しつつあった民族資本家などである。 清朝は憲政視察団を外国に派遣、08年に「予備立憲の詔」を発した。
さらに、地方と中央に予備議会の諮議局と資政院が置かれると、即時国会開催の請願運動が高まり、次いで責任内閣制も発足する。
立憲派は欧米からの鉄道や鉱山などの利権回収運動を進め、ある程度の成果も挙げつつあった。

日清戦争後、朝鮮の閔氏政権は日本の圧力に抗しロシアに急接近する。
ロシアはシベリア鉄道を完成、さらに
義和団事件の際に中国東北に出兵し、そのまま居座った。 これに危機感を抱いた日本との間に1904年、日露戦争が勃発する。 戦争は主に中国東北を戦場とし、翌05年に日本海海戦でロシア艦隊を撃滅した日本の勝利に終わる。
結果、日本は旅順・大連の租借権と南満州鉄道などの権益をロシアから引き継いだ。
この前後、科挙の廃止もあって日本へ行く清国留学生が急増する。 留学生は革命派の影響を受け、帰国後、新設学校の生徒と相まって革命運動に携わっていく。 また留学した軍人学生の影響を通じ、新軍の中にも革命運動が広がる。 改革の一方、清朝を打倒する革命運動も高まる。

日清戦争の最中、
孫文はハワイで興中会を結成、翌年、広州で蜂起を試みるが失敗して亡命、その後主に海外で運動に奔放する。
東北を占拠したロシアに反対する「軍国民教育会」は、しだいに清朝に傾き、湖南省・長沙で華興会、上海で光復会が成立した。
1905年、孫文は興中会・華興会・光復会を一本化し、中国同盟会を設立する。そして、
三民主義を提唱した。
同盟会は07年前後に、中国各地で武装蜂起を画策するが、主として会党組織と結んだ蜂起はことごとく失敗、運動は行き詰っていた。




中華民国の建国~清朝の終焉  ✿   1911年~1916年
1911年5月、清朝が欧米から借款を受ける担保とするため、民営鉄道の国有化を宣言すると、利権回収運動を進めていた人々は憤激し反対運動が広がる。
特に広範な大衆から資金を集めていた四川では保路同志会を結成、9月、清朝が接収を強行すると運動は暴動に発展した(
四川暴動)。 10月、武昌の新軍の中の革命派は、軍が鎮圧のため四川に移動する機械に蜂起を計画するが事前に発覚、やむなく蜂起してかえって成功、司令官の黎元洪を都督に担いで湖北省独立を宣言した(武昌蜂起)
これを契機に、各地で新軍を主体とした蜂起が次々に起こり、長城以南の18省のうち15が雪崩をうって清朝からの独立を宣言した。
12月、占領した南京で革命派と各省代表が会合し、欧米から急遽帰国した
孫文を臨時大総統に選出、翌12年1月、中華民国を建国し臨時政府を樹立した。
清朝は革命が起こると、失脚していた北洋新軍の雄・
袁世凱を北京に呼び戻して首相とし、革命への反撃を期待した。 が、袁世凱は臨時政府と交渉、自らの臨時大総統就任を取り付けると、2月、⑫宣統帝・溥儀に迫って退位させる。
清朝はここに終焉し、王朝体制も終わりを告げた。