明王朝 (1368〜1644年)

 明の成立

白蓮教がおこした紅巾の乱
元末期の1310年代〜80年代にかけて、中国は史上最悪の自然災害に襲われた。各地で食を求める数十万単位の流人や飢民の群れが彷徨するという異様な光景が日常化し、人肉を喰らって飢えをしのいだという記録も数多く残されている。
人々が度重なる自然災害に苦しめられているところへ、元の朝廷による経済政策の失敗が追い討ちをかけた。人々は絶望の淵に叩き込まれ、藁にもすがるような思いが彼らの心を覆い尽くした。
いつ民衆の暴発がおきてもおかしくない状況下、先導役をつとめたのは「
白蓮教」という仏教系の秘密結社だった。至正11年(1351年)に彼らが起こした反乱は、その目印から、紅巾の乱と呼ばれている。これに呼応して多くの豪傑たちが立ち上がった。
反乱軍は大きくA系統に分かれ、河南・安徽方面では
韓林児(?〜1366)・劉福通らの東系紅巾軍が、湖北方面では徐寿輝(?〜1360)らの西系紅巾軍が勢いを増し、各地に呼応するものが相次いだ。
群雄が競い合う中、「
紅巾軍」に身を投じた朱元璋は、そこで頭角を現していく。
至正20年(1360年)前後になると、紅巾軍の活動も衰退期を迎え、内部分裂を繰り返したあげく、しだいに理想を失っていった。代わって各地には群雄割拠の状態が出現し、大都(現・北京)の元朝をよそに、群雄間の熾烈な生き残りの競争が展開される。
朱元璋はまず西系紅巾軍の流れを汲む江洲(江西省九江)の
陳友諒(1316〜63)を、次いで穀倉地帯の平江(江蘇省蘇州)に拠る張士誠(1321〜67)を倒し、中国南部を平定する。浙江沿海部を押さえていた方国珍(1319〜74)も、朱元璋の猛攻撃に耐えかね白旗をあげた。
洪武元年(1368年)正月、朱元璋は南京で明王朝の樹立を宣言。このとき、一人の皇帝の治世期間はひとつの年号でとおす
一世一元の制が定められた。
そして残る敵・元朝打倒のため、大都に向かっていた北伐軍は、洪武元年10月に雪崩を打ったように大都に入城。元朝最後の皇帝・順帝ドゴンテムル(在位1333〜70)は、何ら抵抗も見せずにほうほうの体でモンゴルの地に遁走した。フビライの建てた元朝は、南方から押し寄せる明軍の攻勢の前に、いともあっけなく崩壊を迎えた。


1126年の金による宋の滅亡、さらに1279年の元による南宋の滅亡と、中国は異民族の侵入と征服を受けてきたが、1368年の朱元璋による明の建国によって、久しぶりに漢民族の王朝が復活した。
漢民族の建国した王朝としては、中華人民共和国を別とすれば、明は最後にして最大のものであった。
また、江南から起って北部を征服した王朝として中国史上最初のものである。


宋代以後、中国においては皇帝の専制権力が強化される傾向にあったが、朱元璋(太祖)はその傾向を一層強化し、自己の絶対的な権力の確立に努めた。
彼は有力な部下たちをつぎつぎに粛清し、また元朝の最高の行政機関であった「中書省」を廃止し、「六部」を皇帝の直轄としたばかりでなく、監察、軍事も皇帝の直轄とした。
また、地方行政においては「里甲制」という新しい制度を採用し、地方の末端まで中央権力が掌握できるようにした。
110戸をもって1里とし、その内10戸を里長として1年交替でつとめさせた。残りの100戸は10戸ごとに10甲に分けられた。
さらに太祖は法典の整備にも力をそそぎ、「大明律令」を制定した。
明律は、唐律をおおはばに改変したもので、厳罰主義の立場にたち、つぎの清代にもひきつづき使用された。
 



 明代前期の政治

靖難の変
1398年太祖が死去したが、その長男はすでに死亡していたため、太祖から見れば孫にあたる長男の子が建文帝(在位1398〜1402)として即位した。
太祖の皇子たちは各地に分封されていたが、建文帝はこれらの皇子たちを将来の危険分子とみて粛清を開始したため、北京の燕王・朱棣(1360〜1424)は身の危険を察知し、君側の奸を排除するとして兵をあげ首都・南京を攻撃し陥落させた(「
靖難の変」)。
建文帝は宮殿に火をつけて自殺したが、遺体が確認されなかったためどこかに逃亡したという風説が生まれた。
こうして燕王がかわって皇帝となった(1403年)。これが
成祖・永楽帝(在位1402〜24)である。
成祖は建文帝を明の正史から抹殺し、自己を太祖に次ぐ皇帝とした。
成祖は、モンゴルの勢力に対抗するべく都を南京から北京に遷し、内政外交にも力を入れ、明は世界帝国となっていく。


◆鄭和の西洋下り
また、成祖の時代に行なわれた世界史的な快挙として、宦官・鄭和の南海遠征がある。
この遠征は、1407年から1433年にかけ前後7回にわたるもので、62隻、2万8千人の大艦隊が参加するという大規模なものであった。
彼らは東南アジアからインド洋を横断し、一部はアラビア半島からアフリカ東岸にまで達したのである。
インド洋横断は
ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見に先立つこと約90年であり、いかに当時の中国の航海技術が優れていたかを示すものである。
1498年のヴァスコ・ダ・ガマによる「インド航路の発見」という表現がいかに西洋史的立場のもので、世界史的立場のものでないかが分かるであろう。
この遠征の直接の目的は死亡の確認されなかった建文帝の探索にあったようであるが、結果的には中国の威信が南海にもおよび、南海諸国の入貢を促進するとともに、中国人の南海進出を促し、華僑と呼ばれる海外中国人を生み出すこととなった。


弘治中興
永楽帝の死後、モンゴルへの遠征や東南アジアへの艦隊派遣などの拡大政策は中止されたが、跡を継いだ
仁宗・洪熙帝(在位1424〜25)、宣宗・宣徳帝(在位1425〜35)の2代で明の国力は充実し、最盛期を迎える( 仁宣の治 )。
永楽帝以降、明は一貫して
北虜南倭に苦しめられた。北虜とは北方の遊牧民族のことをいい、南倭とは東南部の沿海地域を荒らしまわった海賊(倭寇)のことをいう。
明代前半、明の北辺を脅かしていたのはモンゴルのオイラト部だった。宣宗につづく英宗・正統帝
(在位1436〜49)は、、1449年親征に乗り出すものの、オイラトの策略にひっかかり、英宗は捕えられて捕虜になるという惨憺たるありさまに終わった(土木の変)。
その後、オイラトで内乱が起きたことから、明はようやくひと息つくことができた。とくに
弘治帝(在位1505〜21)の時代は名臣に恵まれ、皇帝自らが政治に勤め、節倹に留意し、勲戚・宦官の政治介入を抑制し、収奪を軽減し人民の救済に意を用いるなどしたことから、明の中興の世と称えられている。


 

明朝家系図



明の滅亡

◆宦官の跳梁
洪武帝は後漢と唐が宦官のもたらす害によって衰えたことに(かんが)みて、これを重用使用とはしなかった。それに対し、永楽帝は鄭和をはじめ有能な宦官を適材適所に登用した。
永楽帝の場合は、皇帝による統制がしっかりととれていたから問題が生じることはなかったが、それ以降の皇帝(※弘治帝と万暦帝は除いて)は、政務に励むことなく、宦官の跳梁を許すことになってしまった。
1627年に即位した崇禎帝(在位1627〜44)は当初こそ女色に溺れず、節倹を旨とし、王朝の建て直しをしようと意気込んでいたが、すぐに政務に飽き、結局は宦官に依存するようになってしまった。
宦官に賄賂を贈らなかった者、宦官を批判する者は容赦なく粛清され、彼の17年の治世中、誅殺された総督は7人、巡撫は11人にのぼり、兵部尚書は14人が交代させられ、刑部尚書は17人に達した。


◆明を滅亡させた李自成の乱
朝廷の中枢で腐敗・堕落が著しくすすみ、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって軍事費も嵩み、明朝は財政難にも陥っていた。
地方でも、1627年に陝西地方で起きた大規模な飢饉をきっかけに地方の反乱が相次ぎ、相次ぐ反乱軍の中から李自成が台頭してくる。
崇禎14年(1641)、李自成は洛陽を攻略すると、当地に封じられていた万暦帝の子・福王を血祭りに上げ、民衆の喝采を浴びた。福王の豪奢な生活は、民衆の怨さの的となっていたからである。この間、李自成は「均田」と「免税」をかかげて人心の掌握につとめ、数十万を擁する大軍団へと成長を遂げていた。やがて湖北・湖南方面にも勢力を伸ばすと、崇貞17年(1644)正月には西安に入り、大順国を樹立して皇帝に即位した。勢いづいた李自成は、間髪をいれずに明の都・北京に向かって攻撃を開始する。
崇貞帝はおのれを罪する詔を下して勤皇軍をつのったが、応じるものは誰もおらず、そうこうしている間に包囲され、崇禎帝は自殺に追い込まれ、ここに明は滅亡した。