元 (1271〜1368年)

        


--元の支配--


◆モンゴル民族の統一を成し遂げた「チンギス・ハン」
モンゴル民族の台頭以前のモンゴル高原においては、東突厥、つづいてウイグルといったトルコ系民族が勢力をふるっていた。
しかし、9世紀の中頃、ウイグルの滅亡でモンゴル高原が空白地帯となると、モンゴル民族はモンゴル高原の北東部から中央部へ進出してきた。モンゴル民族は12世紀中頃、一時国家的統一を成し遂げたが、とその指示を受けたタタールの手によって壊滅的打撃を受け、分散してしまった。

その後、この分散したモンゴル民族のなかから、テムジンという英雄があらわれ、モンゴル民族は再び統一される。
1206年、テムジンは部族会議(クリルタイ)を開きモンゴル王国の誕生を宣言するとともに、チンギス・ハンという称号を名乗り、新国家の建設にとりかかった。

彼は、従来の遊牧民族の同族的結合を破壊し、彼個人に忠誠を誓う人々を組織して、彼個人の絶対的権力をつくりあげ、専制国家を誕生させた。また、氏族的組織を破壊し、「千戸制」と呼ばれる軍事的・行政的組織に再編成したり、一般遊牧民世帯の組織間での移動を禁止するなどし、王国の内部を整えていった。
その後、チンギス・ハンはバイカル湖周辺の諸部族を征服し、中央アジアに進出して西遼(カラキタイ)支配下のトルコ系諸国家を服属させた。さらに、1211年から1215年にかけて、金を攻撃し、その首都を陥落させた。しかし金は首都を南に移して滅亡を免れた。

当時、西アジアにおいては、セルジュク朝から分裂・独立したホラズムが大勢力となっていた。
チンギス・ハンはホラズムから通商の申し入れを受けて隊商隊を派遣したが、その隊商隊がホラズム国境で襲撃され殺害されたことに激怒し、ホラズム遠征を決意した。 
チンギス・ハンはホラズム遠征に先立って、両国の間にある西遼を平定。準備を整え、1219年、ホラズムに侵入した。1220年、ホラズムの首都サマルカンドは陥落し、掠奪され、破壊された。ひきつづき1225年まで前後6年にわたる遠征で、ホラズムの全域を平定し、本土に凱旋すると、翌年には遠征軍への参加を拒否した西夏を攻め、1227年これを滅亡させた。
しかし、その帰途、チンギス・ハンは病気で死亡した。

 

◆モンゴル帝国の分裂と「元」
モンゴル帝国は第5代ハーンであるフビライの代に内乱によって事実上分裂した。
モンゴル帝国は後継者争いで何度となく諍いをおこすが、そのなかで中国地域の攻略を任されたトゥルイの子・フビライも後継者争いをおこし、中国地域の富を背景にモンゴルの正式な継承者の称号である汗の地位につく。フビライ・ハンは、モンゴルの国号を中国風に「元」とし、都を北京の近くの大都においた。
さらに元は南宋を滅ぼし中国を統一し、以後百年中国に君臨した。

その支配ではモンゴル人のほかに被征服民を色目人・漢人・南人と分け、民族ごとの階層を築いた。
またフビライの代には外征を繰り返し、しかも一部の例外を除いて尽く失敗した。
跡を継いだ孫のティムールの代には、外征を中止したことや、ハイドゥが戦死して戦いが終結したこともあって比較的安定したが、その死後後継者争いが起こった。

 

順帝の時代と元朝の終焉
最後の皇帝・トゴン=ティムール(順帝)の即位で後継者争いに決着がついても混乱は納まらなかった。この時点で既に皇帝は傀儡となっていたのである。
やがて漢民族の不満が爆発し、白蓮教徒が中心となって宋の再興を掲げた「紅巾の乱」が起こり、やがて中国は群雄割拠の状態となった。
その中から頭角を現わした朱元璋が江南を統一し、さらに北へ攻め寄せモンゴルを草原へと追いやった。これによって征服王朝としての元は滅亡する。
しかし、モンゴル人の国家はこれで消えたわけでは無く、モンゴル高原で一大勢力として残り、しばしば明を脅かした。
モンゴルが独立を失うのは、後金に敗れホンタイジをハーンと認めた時である。



--元代の社会と文化--