南宋


皇族の中で難を逃れた、徽宗の息子で北宋最後の皇帝・欽宗の弟、趙構(高宗) は、江南に逃れて1127年宋を再興する。(南宋

建国当初は岳飛韓世忠といった名将が、金に奪われた本拠地を取り戻そうと 互角の戦いをしたが、彼らは地方軍閥であったため連携が弱かった。
やがて和平派である宰相・秦檜が権力を握ると、反対派(主戦派)だった岳飛を殺し韓世忠を引退させた。
そして秦檜らは金に臣下の礼をとり、毎年たくさんの銀や絹を贈るという条件で、屈辱的な和平条約を結び、南宋は金となんとか和平を保っていったのである。

結果的に、南宋も北宋と同じくプライドを犠牲にして平和を金で買ったことになるが、江南という豊かな土地が首都であったため、北宋以上に南宋は経済的に発展した。
そして北宋と同じく外交の失敗からモンゴルに侵略の口実を与え、権臣・賈似道によって内政が乱れていたこともあって元に敗北、 1279年克Rで幼い皇帝、10万といわれる家臣や将兵と共に地上から消えていった。




宗王朝を悩ませた異民族国家 

◆◆タングート族の国・西夏王朝◆◆
タングートは党項を書かれ、チベット系の民族で、当人たちは鮮卑族(南北朝の北魏を建国した部族)の末裔と称していた。
867年の黄巣の乱の時、唐王朝を助け、乱の平定に協力して功績を挙げたことで、一族の首長は”李”という姓を与えられていた。
唐滅亡後は、遼(契丹)の支配下だったが、1038年、首長の
李元昊が興慶府を都とし、「西夏」として建国を宣言する。西夏のあった地域は、東南アジアを結ぶ交通路の重要地に当たっていたため、商人から税金を取ったり貿易の仲介をすることで利益を上げていた。
また、この国の人々は仏教を信仰し、たくさんの寺院や仏像を造り、漢字に真似た「西夏文字」を発明していた。
1227年、モンゴルの
チンギス・ハンによって滅ぼされた。


◆◆女真族の金王朝◆◆
女真族は北宗が遼(契丹)への対応に苦労している頃、遼よりさらに北から現れた部族で、狩猟と農耕によって生活を営んでいた。
女真族は長い間 
遼(契丹)の支配下だったが、完顔(ワンヤン)部族の阿骨打(アグダ)がリーダーとなり、これに勝って勝利する。
女真族は、「ミンアン・モーク」という徴兵制をとっており、軍事力に関しては強力だった。
この力を背景に、二代目の太宗の時に遼(契丹)と北宗を滅ぼし、 淮河より北を支配下に治める。それに伴って、1158年には都を燕京(現・北京)に移した。
金王朝は中国の北部を支配したものの、漢民族の文化に馴染んでいくうちに次第に弱くなり、12世紀末ごろから衰退し始め、1234年にモンゴル軍によって滅ぼされた。