北宋


960年、後周の武将・趙匡胤が幼君に代わって帝位に就き、宋(北宋)を建国。
趙匡胤は唐末期の混乱と五代十国時代の混乱の原因は、軍人に力を持たせすぎたことにあると考え、地方の軍人の権限大幅に制限し、強い力を持つ軍は皇帝直属にし、戦争の原因を取り除いた。
また一方で、皇帝の権限を強くするために君主独裁制度を完成させたり、科挙制度を用いて有能な役人を増やしていった。
北宋は、経済的には史上空前の発展をし、世の中も平和になったが、対外的には中華帝国としては最も弱気であった。
簡単に言えば金で平和を買っていた。

4代目皇帝・仁宗のとき、西北のタンゲート族の西夏王朝に攻められ、朝廷はひどい財政難に陥った。
そのしわよせは一般庶民にも及び、重税のため土地を捨てる農民が続出した。
6代目皇帝・神宗は、国家の困難な状況を突破するため、王安石改革を着手させた。
王安石は、物価の安定・経費削減・収入の確保を目的とし、農民救済策を次々と公布した(「王安石の新法」)が、今まで利益を得ていた地主の大反対にあったりして、結局は失敗に終わる。
朝廷内では改革賛成派と司馬光を中心とする保守派とが対立し、官僚は新法党と旧法党に別れて争うことになる。

歴代の皇帝はバランス感覚が優れていたようだったが、やがてそうでない芸術皇帝・徽宗(8代目皇帝)が現れ、政治が混乱する。


1126年、北宋の都・開封が女真族軍により占領される事件がおこる。
これは、後晋が
契丹(遼)に譲った燕雲十六州を取り戻すため、契丹(遼)を滅ぼそうとした宋が、金に頼んで軍事力を借りたのが原因である。
宋は南から、金は北からはさみうちにする作戦を企てたが、宋は負け続きで、金に助けてもらうどころか助けられるばかりであった。
結局、金に助けてもらった賠償金を支払う羽目になったものの、宋は財政難に陥っていたために支払うことが出来ず、怒った金によって都に攻め入られてしまった。(「靖康の変」)
宋の皇帝らは捕虜として北に連れ去られ、ここに宋は一旦滅んだ。 (北宗の滅亡⇒南宋へ)