五代十国時代
五代十国時代とは?
五代十国時代とは、唐の滅亡(907年)~宋朝の成立(960)までの54年間に、黄河流域を中心とした華北を統治した五つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代。
唐末の混乱期に、唐の朝廷を掌握した軍閥の首領・朱全忠が、907年に唐の昭宣帝に禅譲させて、後梁(こうりょう)を建国した。
この時、晋王・李克用ら唐末の混乱に乗じて地方で自立していた軍閥(節度使)が、後梁の受禅を認めずに各地で自立したため、五代十国の分裂時代が到来することとなった。
◆五代中原王朝の興亡
王朝 | 興亡年 | 内容 |
後梁 | 907~923 | 後梁の太祖朱全忠(朱温、在位907~912)はもと黄巣の配下であった。 唐に投降して汴州(べんしゅう、現開封市)を治所とする宣武節度使を授けられ、さらに梁王となったが、唐朝最後の哀帝に迫って譲位させ後梁を開いた。その領域ははじめ黄河中下流域だけで、のち周辺に拡大したけれども中原5王朝の中で最も狭かった。 後梁は朱全忠がその子友珪に殺され、友珪もその弟友貞(末帝)に殺されるなど内訌が相次いだ末、晋の李存勗(そんきょく)に滅ぼされた。 |
後唐 | 923~936 | 五代十国以前、太原を根拠地として朱全忠と覇を争ったのは突厥沙陀部出身の晋王李克用(856~908)であり、その子存勗(荘宗、在位923~926)が唐朝の復興を標榜して後梁を倒し後唐を開いた。 荘宗は定難節度使の領土(陝西北部)を除いてほぼ華北を統一したほか、四川の前蜀を滅ぼして支配下に収めたが、養子李嗣源(明宗)に倒された。 明宗は、皇帝直属の侍衛親軍を創設し、財政担当の三司使を独立させるなど皇帝権力の強化に努めたので国内は安定した。しかし末帝(明宗の養子)のとき、河東節度使・石敬瑭と結んだ契丹に滅ぼされた。 |
後晋 | 936~946 | 石敬瑭(高祖、在位936~942)は突厥沙陀部の人で、後唐の明宗の女婿であった。 彼は契丹を中国に引き入れ後唐を滅ぼすと帝位につき、後晋を建てた。契丹に対しては約束に従い臣と称し、いわゆる燕雲十六州を割譲し、歳幣をおくった。しかし、この屈辱的な外交は出帝のとき転換し契丹と戦火を交えた結果、圧倒的な契丹軍の前に滅亡した。 |
後漢 | 947~950 | 後晋を滅ぼした契丹の太宗は開封にあった中国の文物を上京に運ばせたほか、契丹軍に打草穀といわれる猛烈な掠奪を許した。国号を大遼と定め大同と改元したのを見ると、中国風の王朝を整えるつもりであったのかもしれない。しかし各地で反契丹の戦いが続発すると、華北支配を占領。わずか数ヶ月で放棄した。 その契丹が北帰する以前、突厥沙陀部出身の劉知遠は太原を根拠地として帝位につき後漢を開いた。 その後、開封に入って首都とした。後漢はわずか2代、4年の短命王朝であった。 |
後周 | 951~960 | 五代最後の王朝後周は、後漢の枢密使・天雄軍節度使郭威が兵士に擁立されて建国した。 郭威(太祖、在位950~954)は戦乱で荒廃した土地の復興につとめるなど内政に意を払い、跡を継いだ養子柴栄(世宗、在位954~959)は北漢・契丹と高平(沢州)で戦った後、禁軍改革を断行して強化し、南方の大国・南唐から長江以北を奪った。 また、財政の充実をはかって仏教寺院を弾圧し、田土や仏像等の銅製品を回収した。さらに燕雲地方の奪還を目指して遼と戦い、2州ではあるが取り返した。 しだいに唐末以来の混乱に終息の気運がみえはじめた頃、世宗は病没した。7歳の恭帝が跡を継いだが、契丹の侵入に対して出兵した趙匡胤が陳橋駅(開封東北)でクーデタを起こし、宋朝を開いた。 |
◆十国の興亡
政権 | 興亡年 | 内容 |
前蜀 | 907~925 | 朱全忠が後梁を建国したとき、四川では無頼から身をおこし西川節度使、ついで蜀王に封じられた王建が帝を称して前蜀を建てて対抗した。 後唐に滅ぼされる。 |
後蜀 | 934~965 | 後唐から西川節度使に任じられた孟知祥が自立して帝を称し後蜀を開く。 最後は宋に滅ぼされた。 |
呉 | 902~937 | 戦災孤児であった淮南(安徽)の楊行密が建国。戦火によって灰塵に帰していた本拠地揚州近辺をよく治め、復旧に努めた。彼の直属部隊は、黒衣を身に纏った精鋭であり、「黒雲都(黒い雲の集団)」と呼ばれた。 しかし、楊行密の死後、実権は牙兵をにぎる徐温に移り、徐温の死後は養子の徐知誥によって滅ぼされた。 |
南唐 | 937~975 | 呉の徐温の死後、その養子である徐知誥が呉を滅ぼして南唐を建てた。 徐知誥は李昪と姓名を改め、大唐帝国の復興を掲げて帝位につき、契丹と通好して華北王朝と対立した。しかし後周の世宗に江北を奪われ帝号をやめ国威は衰えた。その後、後主である李煜の治世時、宋の太祖に降った。 |
荊南 | 907~963 | 江陵周辺の湖北の一部で自立したのは荊南節度使の高李興で、王として荊南(南平)を建てた。荊南はわずか3州を領するだけの小国であるが、強国間の緩衝地帯となり、宋に倒されるまで命脈を保った。 |
呉越 | 907~978 | 浙江の鎮海節度使銭鏐(せんりゅう)が王号を認められて成立した政権。銭鏐は自営軍である杭州八都の支持を受けて勢力を拡大した。 |
閩 | 909~943 | 威武軍節度使王潮が基礎を築き、弟の審知が閩王に封じられた。閩はやがて帝号を称して華北の後唐と対抗したが、内訌から分裂し南唐に滅ぼされた。 |
楚 | 907~951 | 湖南に拠点を持つ武安節度使の馬殷が楚王に封じられて建国。南唐に滅ぼされるまで続いた。 |
南漢 | 909~971 | 広東・広西の南漢は広州勅史劉隠が自立して始まる。その子劉巌は帝を称し、国号を大越⇒南漢に改めた。南漢は南海貿易で栄える一方、内紛も多く、宋に滅ぼされた |
北漢 | 951~979 | 中原王朝の後漢が滅んだとき、一族の劉崇が太原に拠って自立し漢を復興した(北漢)。契丹と結んで後周・宋と対立したが、宋の太宗に併合された。 |
(※)その他にも短期間独立を保ったものに『燕・周行逢政権(建州)・岐・』などがあった。
華北では、梁・晋のほか、唐末、勢力を振るった節度使で王に封じられ事実上独立したものに岐がある。岐は陝西の鳳翔県節度使李茂貞(りもてい)が建てたが、当初の領土はしだいに狭まり、後唐の荘宗に降った。
幽州の盧龍節度使劉守光(りゅうしゅこう)は、後梁の開平3年(909)燕王に封じられ、ついで帝を称した(大燕)が李存勗の攻撃を受けて滅んだ。
※地図中の■は950年までに滅んだ国