唐 (618〜907年)

        


唐王朝

◆唐の建国
隋の煬帝の従兄弟にあたる李淵は、西魏八柱国の流れをくむ名門ながら特に目立ったキャリアはなく、隋末の混乱に向かう世情にあっても当初は積極的対応を見せなかった。ところが617年に一転、挙兵を決断するや、煬帝不在の大興城を陥し、煬帝の孫・楊侑を擁立して覇権争いに参戦すると、618年には禅譲を受けて即位し(高祖)、唐を建国した。
しかし、実質的にはその次男・李世民の働きによるところが大きかったとされる。
李淵が後継者選びに迷っていたとき、世民が兄弟の
建成元吉を殺害し、李淵をも監禁してしまうという事件が起こったため、李淵は間もなく退位して、世民が即位、太宗となった。(玄武門の変)


太宗・李世民の政治〜貞観の治

太宗の治世は貞観の治と呼ばれる太平の世だった。この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世、政治的な理想時代とされた。 文には魏徴、房玄齢、杜如誨、長孫無忌。武には李勣李靖ら有能な人材に恵まれ、君臣一体の政治が行われたとされている。しかし、この記録は太宗を美化しすぎているといわれる。現実に太宗は、かなり強引なこともやっている。それは貴族制の再編である。魏晋以来の価値観に従えば、帝室である李氏といえども上流階級には分類されない。これでは面目が立たないというので、太宗は新たな基準として、貴族の家格を九等に分け、自ら(李氏)は第一等として君臨した。

 


則天武后と玄宗皇帝

◆女帝誕生
太宗が649年に亡くなると、その子
李治が即位した(高宗)。彼自身はごく凡庸な皇帝に過ぎなかったが、治世の前半には長孫無忌や李靖といった元勲たちが健在であり、彼の時代に唐の羈縻支配(きびしはい)が最大領域となったのも、その輔政のたまものであった。
だが彼が、太宗の死後その後宮から仏門に入っていた一人の尼、武照を見初め、宮中に招き入れたことで、唐朝の運命は急転する。政治的才覚に長けた彼女は宮中の内紛に巧みに乗じて皇后に冊立されると、病弱な高宗に代わって政治を専らにしはじめたのである。
武后はこれに批判的な貴族を次々に排除し、朝廷を彼ら
関隴集団の影響力が強い長安から洛陽に移した。そして高宗死去後は、新帝・中宗李顕:高宗との間の息子)を2ヵ月足らずで退位させ、ついで即位した弟の睿宗(李旦)を傀儡同然に扱うなど、最高実力者として権力を振るい続けた。
この間、彼女は儒教的男尊論理に対抗しうる思想として仏教を重視した。そして、609年、ついに中国史上唯一の女帝として即位し、国号を「周」と革めたのである。
かくしてはじまった武后の治世は、次に述べる韋后に時代とともに「
武韋の禍」と呼ばれ、女性の政治専断、酷吏による恐怖政治、武氏一族の重用等、儒教倫理の立場から酷評されることも多い。だが彼女の治世は、宮廷内の暗闘を除けばおおむね国内外は平穏であった。


武韋の禍
即位時点で既に老境にあった武后にとって後継者選びは緊急の課題であり、結局迷った末に前々皇帝の中宗が呼び戻され、太子に据えられた。そして武后が病に伏せた705年、宰相
張柬之により武后は譲位を迫られ、中宗が復位し、国号も唐に復する事となった。
幽閉された武后が間もなく世を去ると、中宗政権のもと皇后
韋氏が新たな権力者となった。彼女は唐朝復活で危機感を募らせる武氏一族と手を組み、710年には夫の中宗を暗殺して、自らの即位に向けた動きを顕わにし始めた。
だがそのもくろみは、李旦(睿宗)・
李隆基親子ら李氏サイドの反撃によって打ち砕かれる。とりわけ顕著な活躍を見せたのは李隆基(のちの玄宗)で、自ら禁軍を指揮して韋后一族を誅殺、睿宗の復位を実現して、自らは皇太子に立てられた。
ところが今度は太子と太平公主とが対立を始める。両者の党争は当初後者のペースで進められたが、713年に発動したクーデタで形勢が逆転、公主派は一掃され、前年に即位していた李隆基、すなわち玄宗皇帝の親政体制が確立されるのである。


開元の治
武后の死後、唐王朝が復興し、再び唐の繁栄をもたらしたのが8世紀前半の玄宗の治世であり、その前半の政治は「開元の治」と称される。開元期における内政面の政策としては、武后時代と同じく新興官僚層を基盤とし、
・宦官・外戚に政治介入させない
・皇帝側近にある者の不法を厳しく取り締まる
・定員外の官をすべて廃止する
・皇族を権限の大きな高官に任命しない
・法制より仁義を重視
・君臣の礼を明らかにするとともに臣下に対して礼を以って遇する
などを基本としていた。
ところが、治世の後半、玄宗は人が変わったようになる。
楊貴妃を寵愛するあまり、政治を顧みなくなったのである。
その間、権力を強めていったのは、「口に密あり、腹に剣あり」といわれた宰相の
李林甫と、楊貴妃の一族である楊国忠、および節度使の安禄山だった。楊国忠と安禄山がともに李林甫の後押しを受けていたことから、李林甫の在世中は大きな対立が生じることはなかったが、李林甫が没するやいなや、たちまち対立が先鋭化することになった。


安史の乱
玄宗の治世後半、人口の増大と農地の減少は均田制の維持を困難とし、農民の逃亡が増加して、府兵制は解体していった。
それに伴い、義勇兵をつのる政策(募兵制)がとられ、辺境を防衛する軍団の長・節度使のもとに集められた。こうした中から浮上したのが
安禄山であり、彼は玄宗・楊貴妃の籠ももあって次第に出世し、三つの地域の節度使を兼任するに至る。
だか辺境における大軍団の登場は、外戚・楊国忠の警戒を呼び、追い落としが画策される。危機感を募らせた安禄山は、755年、楊国忠排斥を大義に反乱をおこす。
安禄山の精強な私兵軍団は、根拠地・幽州から瞬く間に河北・河南を圧巻し、首都防衛の最終ラインである潼関が突破されると、慌てた玄宗は四川に逃走した。
途中、玄宗は兵士の要求により政治責任者で宰相・楊国忠と、愛姫・楊貴妃を殺さざるをえなかった。
しかし、安禄山の軍も民心を失い、安禄山は側近により暗殺され、部下の史思明も殺され、玄宗にかわった
粛宗(李亨)の軍が長安を回復して、反乱はおわった(安史の乱)。が、安史の乱は唐朝衰亡への転換点となった。



唐末期の政治

半独立状態の節度使
安史の乱後、一度崩れた体制再建するのは至難の業だった。反乱軍の切り崩しのため、有力武将に対して節度使の職を約束するなどしたため、辺境だけでなく内地にも節度使を置かざるをえなくなった。その結果、50あまりにも増加した節度使が半独立の態度をつるようになる。
一方で、安吏の乱は大量の流民を生み出した。これでは従来の税制を見直さざるをえない。そこで780年に試行されたのが
両税法である。これは従来の本籍地に基づく徴税方法を廃棄して、農民が現に住み、耕している土地の所有権を認め、土地の面積や生産高に応じて一年に2回、銅銭で納税させるというものだった。


宦官の専横
憲宗(在位805〜820年)の時代は、両税法が軌道に乗るとともに、節度使の権限縮小にも成功し、唐の衰退に歯止めがかかったと思われる時期にあたっていた。
しかしほっとしたのも束の間、かねてよりあった門閥貴族勢力と科挙官僚勢力の対立が激しくなり、
牛李の闘争とよばれる、政策無視のえげつない派閥争いが30年にわたって繰り広げられた。
それが終わって見れば、朝廷の権力を握っていたのは、後宮の使用人、皇帝の私的奴隷であるはずの宦官たちだった。しまいには皇帝の廃立さえ思うままに行うようになり、12代の
穆宗から19代の昭宗までの8人の皇帝のうち、13代の敬宗以外は全て宦官によって擁立されるという有様だった。
唯一の例外である敬宗も在位わずか2年で宦官によって暗殺されている。同じ頃、コウでは
黄巣塩賊に人望が集まっていた。



唐の衰亡

黄巣の乱
財源に苦しんだ唐の朝廷は塩を専売にして高率の税をかけ、私的に塩を売る者を死刑によって取り締まった。
これに不満をもった塩商人らが密売武装集団(塩賊)を結成し、黄巣が反乱をおこした。黄巣軍は根拠地を定めず、敗れれば退き、飢えれば他所へ移る「流寇」という戦術で北は中原から南は広州に至る広大な領地を転々とした挙句、880年にはついに長安を陥して帝位に即き、国を「大斉」と号した。
だが、国家建設にむけたビジョンに欠く黄巣政権は、流寇をやめたところで次第にきしみはじめる。一方、皇帝・
僖宗を蜀へ逃して機を窺っていた朝廷側の反撃は、882年に反乱軍の有力者・朱温(のちの朱全忠)の寝返りを引き出し、結局883年に黄巣は唐軍によって撃破された。



唐の滅亡
黄巣の敗死後の885年、
僖宗は晴れて長安帰還を果たす。だが、10年にわたる反乱の爪痕は深く、朝廷の威令が旧時の栄光を回復することはもはやなかった。そして乱後の政治は、僖宗とその跡を継いだ昭宗を軸に、宮廷を牛耳る宦官、および黄巣の乱で協力を得た朱全忠李克用ら軍閥たちの間で繰り広げられていく。
この争いの中で台頭したのが、大運河と黄河の中継地として経済成長の著しい巷州を押さえた朱全忠である。彼は李克用ら諸軍閥を封じ込めて昭宗を手中に収めると、902年には朝廷を洛陽に移転させる。この際、彼は長安にあった宦官数百人を殺害した。
朱全忠は904年に昭宗を殺し、幼い
昭宣帝(哀帝)を立てる。そして905年には、なお高官を占めていた貴族たちを滑州白馬駅に集め、黄河に突き落として皆殺しにした。
宦官と貴族、唐代を彩った主役たちの退場は、すなわち唐朝そのものの死亡宣言に等しかった。朱全忠は907年、昭宣帝からの禅譲を受けて即位し(太祖)、新王朝
梁(後梁)を樹立する。以後50余年、「五代十国」とよばれる混乱の時代がつづいた。



--唐代の社会と文化--

唐詩の躍動
唐代の社会と文化でもっとも注目すべきはその国際性と文学の分野である。文学の中では、詩を特筆しなければならない。
属に唐詩という言葉があるように、唐代は漢詩がもっとも躍動感を有していた時代だった
文学史上、唐代は初唐、盛唐、中唐、晩唐の4つに区分される。初唐は王勃ら四傑によって代表され、盛唐には詩仙と呼ばれた
李白、詩聖と呼ばれた杜甫をはじめ、王昌齢、王維など、歴史に名を残した名詩人は枚挙にいとまがない。
中唐になると韓愈、
柳宗元があらわれ、貴族的な形式美の追求を批判した自由で個性的な表現を第一とする古文復興運動を展開した。極度に技巧をこらした美文に激しい批判を浴びせ、漢代の自由な形式に範をとらせることを唱えたのである。こうした貴族文化に対する革新運動は文学だけにとどまらず、あらゆる分野に波及した。


国際都市・長安
唐の都・長安は東アジア最大の都市だった。最盛期には百万人に近い人口がひしめいていたとされる。そこは声域文化の最大の窓口の一つでもあり、異民族も多数暮らしていた。西方から来た異民族はすべて胡人、商人は胡商、女性は胡姫と呼ばれ、胡服、胡帽のように文物にも「胡」の字が冠せられた。上流階級の間ではポロ(古代イランを発祥とする球技)が流行っていた。
西方伝来の音楽は胡楽と呼ばれたが、早くも隋の時代には、漢代以来の雅楽が復興されるとともに、国家の典礼に付属する宴饗楽として胡楽が採用されていた。音楽に造しの深かった玄宗の時代には、胡楽と民間の俗楽を融合させた新しい形式の楽曲も生み出されている。
こうした国際的な雰囲気は長安に限らず、全国各地に、また文化のあらゆる文化に及んだが、中でも美術に与えた影響は大きかった。