隋 (581〜618年)


◆隋の建国と統一
581年、北周の大丞相にして隋王の楊堅は静帝により禅譲を受けて即位し(文帝)、隋を樹立する。
北魏末の六鎮の乱(523〜530年)以来、武川鎮からは多くの人材が輩出された。楊氏も西魏十二大将軍の家柄だった。
彼らは西魏から北周にかけて婚姻関係を交わし、他の鮮卑・漢族を融合して次第にまとまっていく。楊堅はこうした婚戚関係を利用し、北周宮廷において外戚として権力を振るった。この間、自身の政敵をぬかりなく失脚させて準備を整え、ついに禅譲劇を挙行する運びとなったのである。
この時隋が領有していたのは中国の北半と長江上流域であり、北は当時東方ユーラシア最強と目される
突厥、南は南朝のと対峙する形勢にあった。
彼はまず突厥の内紛に乗じて583年、東西分裂に至らしめ、次いで次子・
楊広らの総攻撃により589年、陳を平定する。西晋滅亡以来270年にわたった分裂の時代は終わり、中国は統一されたのである。

文帝はまた、社会の安定のため、経済を立て直そうと行政改革を断行した。
@それまでの九品官人法に代わり、(未完成だが)科挙を実施
A中央集権的な国家体制の確立(三省六部)
B「州-郡-県」三級制から「州-県」二級制に地方管制を簡素化
C均田制の施行
D軍戸(職業兵)を廃し一般小農民に兵役を課す(府兵制)
・・・・などを行った。


◆隋の衰亡
604年に文帝が死去すると、太子・
楊広、すなわち煬帝が帝位に即いた。これよりさき、彼は陳平定の武勲を背景に兄である楊勇を引きずりおろし皇太子の座に収まっていたが、即位の経緯も不透明で、自身による父帝殺害説まで取り沙汰されている。

煬帝は人民を動員して大運河を完成し、中国の南北を結びつけたり、大規模な外征に乗り出し、トルコ族の東突厥を服属させ、鮮卑族を征服した。
しかし、朝鮮の高句麗遠征に二度にわたって大敗し、度重なる負担に民衆は耐えかね、第二次高句麗遠征からの撤兵の途中に起きた楊玄感の反乱を期に、全国的に反乱が起きるようになる。そのなかで側近
宇文化及(うぶんかきゅう)の裏切りにかかって煬帝は暗殺された。
ここに隋の命運は事実上尽き、世は河北の
竇建徳(とうけんとく)、河南の王世充李密、そして山西の李淵等、群雄の割拠する時代となっていくのである。