東晋・五胡十国時代


八王の乱とは、晋(西晋)の滅亡の原因となった皇族同士の内乱のことで・・・・・
晋の初代皇帝・司馬炎(武帝)の死後、その息子である恵帝が即位するが、武帝の皇后・楊氏一族と、恵帝の皇后・賈氏一族が争った。
賈氏一族は、汝南王・司馬亮楚王・司馬偉を味方に付けて、楊氏一族を滅ぼすが、さらに用済みということで汝南王と楚王を殺害する。
ここで8人の諸王を巻き込んだ内乱が発生(そのうち7人が死亡)し、これは恵帝の弟が帝位に就くまで続く。
西晋はこれにより国力が大いに低下し、農民は荒廃した華北の地から南へと移住し、またこの乱で利用された匈奴の侵攻を防ぎきれず、316年に滅亡する。

一見磐石に思えた晋の弱体化は、内乱に参加した異民族に独立への野心を与えることとなる。
そして、中国北部はこの異民族らによって支配されてしまう。
五種類の異民族が十六の国を建てた時代、これを「五胡十六国」という。
五胡とは匈奴鮮卑ていの五つの事である。(ただし、羯は匈奴の中の一派であって、これを一と数えるのは少々無理がある。)


これに対し、生き残った漢民族と司馬一族は、長江を南に越えて、南京で新政府を立ち上げる。(東晋
東晋は亡命政権で基板が弱く、何度となく崩壊しかけたが、華北の分裂により何とか命脈を保つ。
しだいに華北では前秦が力をつけ一時華北を統一し、さらに天下統一に向け東晋に攻め込むが敗れ、急速に力を失い、再び群雄割拠する。
そして華北は拓伐部の「北魏」により統一され「五胡十六国」の興亡に終止符が打たれる。
また、江南では劉裕が東晋を乗っ取り「」を建てる。

これ以降の中国は、北朝と南朝が対立する、いわゆる「南北朝時代」とよばれる時代が、約400年にもわたり続く。


 五胡十六国時代の勢力地図