前漢・新・後漢


前漢の成立
始皇帝の死の翌年、大規模な農民の反乱がおこる。
反乱軍の農民は、国境警備の人夫として狩り出された人物で、陳勝呉広の二人がリーダーとなっていた。
この乱をきっかけに、世の中は再び戦乱の時代に入っていく。
この反乱のなかで頭角をあらわしてきたのが、楚からおこった項羽劉邦である。
劉邦がまず咸陽を陥落させ、ここに秦が滅亡したが、さらに 前202年、項羽を破って中国を統一し、高祖として即位した。

高祖は都を咸陽に近い長安に定め、中央部においては秦の郡県制を採用したが、遠隔地には諸侯を封ずる方針をとった(郡国制)。

その後地方の諸侯の独立的傾向が強まり、前154年 には呉楚七国の乱がおこったが、景帝(6代皇帝)はこれを鎮圧し、領土を細分化したため、以後諸侯の勢力は衰え、権力の基礎が安定した。 
武帝(7代皇帝)の時代(前141年〜前87年)が前漢の最盛期であり、中央集権体制が確立した。
国内政治の安定とともに、武帝は対外的に積極政策をとり、匈奴に対し攻勢に出た。
西方の大月氏と連合して匈奴にあたる計画を立て、前139 年 
張騫を使者として大月氏に派遣した。
大月氏は匈奴と戦う気はなく、7年におよぶこの旅行は目的を達しなかったが、西方の情勢が中国に知られ、その後西方に対する征服の進展とともに、シルク・ロードが開かれることになる。
また、前108年には衛氏朝鮮を討ち、楽浪郡以下4郡を設置した。

漢代には儒学が官学とされ、以後中国の基本的政治原理となった



前漢の衰退⇒新⇒後漢の成立 
前漢は相次ぐ遠征により、財政難に陥った。
武帝は、塩や鉄を国家の直売にして利益を朝廷のものにしたり、税金をあげ、「平準法」・「均輸法」という法律をつくり、国家が物資の値を決めたり流通を統制するも、問題解決には至らなかった。

そして前1世紀後半には、貧富の差が広がり、自然災害がおこるなどし、社会はますます不安になっていった。
この社会の不安に乗じ、漢の宮廷においては、外戚の王莽(おうもう)が官僚とむすんで宦官の勢力を圧倒し、ついに幼少の皇帝を廃して自ら皇帝となり、国号を
「新」と称した。
王莽は、儒教的復古主義の立場から政治の改革を試み、大土地所有を禁止し奴隷の売買を禁止した。
これは貴族など大土地所有者の猛烈な反対をまねいた。
その他、周代の制度にならって種々の改革を行なおうとしたが、かえって政治は混乱し、前17年におきた
赤眉の乱をきっかけに、再び動乱の世に突入する。

数ある勢力を抑え、漢の皇族・劉秀(のちの光武帝)の率いる軍が赤眉軍を破り、洛陽を都に25 年、後漢を建国した。



◆後漢王朝 
劉秀(光武帝)が中国を統一するにあたってその戦力としたのは、主として地方豪族であり、後漢は最初から地方豪族の連合政権としての性格をもっていた。そのため、皇帝の権力は豪族の力によって制約されていた。
しかし、光武帝は中央集権体制の建設と、経済の復興に力を入れた。

1世紀、北方異民族の匈奴は相続争いから南北に分裂し、南匈奴は、北匈奴に対抗するため後漢に属した。
後漢と南匈奴の連合軍は北匈奴の討伐のため、西方に進出した。北匈奴はこの戦いに敗北し、西方に大移動を行なった。
中国史において匈奴とよばれる民族は、西洋史においてフン族とよばれる民族と同一であるといわれ、このとき移動した匈奴がその後ヨーロッパにあらわれ、ゲルマン民族の大移動を引き起こしたものであるとされている。

後漢では、4代目皇帝・和帝の頃から、幼い皇帝が続いたために外戚が権力を握るようになり、宦官との間で激しい権力争いがおこった。
また、財政の窮迫から農民への収奪が強化され、その結果、184年の
黄巾の乱という農民反乱がおこった。
その後、地方的軍事政権が割拠する状態となり、220年、後漢は魏の
曹丕によって滅ぼされた。