周王朝(前1050年〜前771年)


周は殷の西北辺境にあった国である。古公亶父の代に飛躍的に成長を遂げ、西伯昌(文王)と武王の二代がかりで、殷にかわって天下をとった。
武王の死後、後を継いだ誦(成王)がまだ幼かったことから、武王の弟、周公旦が摂政として七年間にわたり補佐にあたった。治世の実態はともかく、井田制をはじめこの時周公旦がおこなったと史書にある政治が、後世の儒家から理想の政治と崇められ、『周礼』は必須の教本とされることになる。

@井田制・・・正方形の土地を九等分し、そのうち八つを私田、ひとつを協同して耕作する公田とする土地制度。実際に行われたものではなく、後世の儒家が理想の制度として考えたもの。
A周礼・・・西周王朝の行政組織を記したとされる書。周初の編纂とされるが、実際の編纂時期は戦国時代以降。漢代にすでに「六国陰謀の書」と呼ばれ、後世にまで強い影響を及ぼした。
 

◆◇西周と東周◇◆
周王朝は、紀元前1050年ごろに誕生し、紀元前256年に滅亡する。
およそ8世紀もの寿命を保っていたように見えるが、実質的な寿命はもっと短い。

周王朝は紀元前771年にいったん滅亡し、その後、都を東に移し、「東周王朝」がうまれるが、もはや名ばかりの王朝にすぎず、中国史は動乱あいつぐ春秋戦国時代に突入する。
なお、形ばかりの東周王朝と区別するため、幽王が在位していた紀元前771年までの王朝を「西周王朝」ともいう。

周が衰退した理由は、暗愚の王が続いたこともあるが、国家として限界にきていたことも大きい。
周は建国当初、領域を拡大することで税収を上げ、その財力で諸侯を従えていた。
しかし、周代半ばになると、領域の拡大は不可能となり、税収が不足し始めた。
そこで、国内の税金を上げようとして、諸侯や各地の有力者と衝突するようになった。
周王朝を支持する諸侯は少なくなり、すぐには周に取って代わる者が現れなかったにせよ、諸侯から無視されるような王朝に成り下がっていたのである。
東周となってからもその状態は続き、周の王室は諸侯の大義名分用にだけ使われる存在になっていく。