神話時代 (?~3000年頃)


聖人とされた三皇五帝
史記』は、皇帝らの事績を書いた「本紀」の「五帝本紀」からはじまる。
五帝とは、黄帝顓頊(せんぎょく)嚳(こく)堯(ぎょう)であり、伝説の時代の皇帝。
のちの唐代に、司馬貞が「五帝本紀」の前に「三皇本紀」と付け加えるが、司馬遷にとっては「五帝」の時代が歴史の始まりになる。
「五帝」の始まり、黄帝こそは、中国最初の王になる。
黄帝がいた時代は、まだ大きな版図をもつ王朝はなく、各地に小さな豪族が数多くいたと推定される。
彼らを従わせることで、王となることが出来たようだ。
 
黄帝は、
姓を「公孫」、名を「軒轅(けんえん)」といった。日本の聖徳太子伝説と似ていて、生まれながらの天才だったと言われている。
最初から王だったわけではなく、成長するにつれ、穀物の生産を向上させ、戦上手にもなり、諸侯から信望を得るようになったという。
当時の黄河流域では、神農氏炎帝(しんのうしえんてい)の治世が続いていたが、神農氏炎帝が衰え始めたのをいいことに、諸侯の中には、侵略を働く者や民を苦しめる者が現れた。そんな混乱下、良識ある諸侯の期待を集めたのが、軒轅である。軒轅は、暴虐を働く諸侯を討伐した。
しかし、これで世の中が治まったわけではなく、今度は逆に神農氏炎帝が諸侯に暴虐を働き始めた。諸侯は軒轅を支持し、軒轅は軍勢を率いて神農氏炎帝を”阪泉の野”で破る。
この後、蚩尤(しゆう)が反乱をおこしたがこれも破り、諸侯らに支持され、軒轅は神農氏炎帝に代わり、『黄帝』として皇帝の座に就くこととなった。

黄帝については、さまざまな伝説がある。
まず、
暦をつくったといわれ、中国の歴史年は黄帝から始めるのだ。今でも中国には「黄帝紀元○年」という言い方が残っている。
黄帝が蚩尤を征伐したときの物語は後世脚色され、蚩尤は化け物、もしくは半人半獣にされたりした。
その蚩尤が起こした霧に、黄帝は苦戦する。黄帝は南の方角を指し示す車、「指南車」を発明し、正しい方角を軍隊に知らせた。これにより、黄帝は蚩尤を破ることができ、教え導く「指南」という言葉の語源にもなった。
更に、指南車を発明した黄帝は、中国における車の発明者ということにもなっている。