-た行-

張角(ちょうかく、?~184年)

字は不明。
太平道の創始者。鉅鹿(きょろく)の人。
後漢末、朝廷の腐敗ぶりを後目に黄巾賊を結成。 自ら大賢良師を名乗り、弟の張宝・張梁と共に大規模な民衆反乱を起こした。
「蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし」のスローガンを掲げ、黄巾の乱は各地で勃発。官軍はその鎮圧に苦戦した。
しかし皇甫嵩麾下の曹操や、義軍を結成した劉備らの奮戦により乱は終結。 張角は失意のうちに病没した。その亡骸は墓から掘り起こされ、切り刻まれたという。



張梁(ちょうりょう ?~184年)

張角、張宝の弟。人公将軍を自称。
兄達と共に黄巾の乱を起こす。
兄・張角の死後も広宗にて抵抗するが、184年10月、皇甫嵩軍に敗れ戦死する。


張宝(ちょうほう、148年?~184年)

張角の弟。
張角とともに漢王室に対して挙兵、黄巾の乱を起こす。
「地公将軍」を自称し、兄譲りの妖術で反乱を指揮するが、部下の厳政に刺し殺された。


張曼成(ちょうまんせい、生没年不明)

黄巾の乱の将。
太平道の教祖である張角に応じて蜂起、黄巾の乱を起こした。
皇甫嵩、朱儁 ら朝廷の討伐軍を南陽の地に迎え撃つ。



陳宮(ちんきゅう、? ~198年)

字は公台。
関所で董卓暗殺未遂として指名手配されていた曹操を捕らえたが、曹操の忠義に感じ入り、縄を解いて共に逃亡。 しかし行く先々で見た曹操の残虐な行為に疑惑を持ち、曹操のもとを離れる。
以後は血迷ったのか、呂布に仕えてその参謀として活躍。 一度は彼の策で曹操をあと一歩のところまで追い込んだこともある。
しかし最終的に呂布は曹操に討たれ、陳宮も曹操からの仕官の誘いを断って斬刑に処された。



田豊(でんぽう、? ~200年)
-使える主人を誤った屈指の軍師-

字は元皓。
袁紹の軍師。
初め審配と共に韓馥に仕えていたが、重用されなかった。しかし袁紹に帰順してからは数々の優れた策を献じ、別駕に任命された。
その後も対公孫瓚戦などに貢献し、袁紹は見事冀州を手に入れる。
しかし次第に強情な態度を袁紹に疎んじられるようになり、官渡の戦いの直前に出兵を控えるよう進言し、怒りを買って投獄された。 果たして官渡にて大敗北を喫した袁紹は、その報を聞いた田豊が大笑したという逢紀の讒言を信じて田豊を殺害した。



陶謙(とうけん、132年~194年)

字は恭祖。
徐州刺史。
董卓討伐連合軍に参加。 のち、曹操の父・曹嵩が曹操のもとへ向かう際、配下に裏切られ、曹嵩を殺されてしまう。激怒した曹操に猛攻撃を受けるが、劉備らの援軍によって徐州を守りきった。 その後、劉備に徐州を委ねて死亡する。



董卓(とうたく、?~192年5月22日)
-悪逆非道で狭量な野心家-

字は仲穎。
異民族の平定でその名を挙げ、黄巾の乱の折には官軍の司令官に任命されている。
その後、西涼で虎視眈々と時節を待ち、政界の混乱に乗じて上洛を果たす。 ここで呂布を養子に迎え入れると、次に少帝を廃して献帝を擁立。ここに董卓の酒池肉林の生活が始まった。
しかし諸侯が団結しても倒せなかった彼を、王允が美女連環の計であっさりと倒してしまった。 臍に立てられた蝋燭は、何日も消えることなく燃え続けたという。



董旻(とうびん、? ~192年)

字は叔穎。
董卓の弟。
何進に仕えていたこともあったが、その何進が宦官の張譲らに殺害された時に、まず十常侍らを斬り捨てて、そして、同僚の呉匡(呉班の父で呉懿の従父)と共に何進の異母弟の何苗を惨殺した。
後に董卓が軍を率いて洛陽を支配すると、呉匡を追い払い共に都の権限を完全に掌握した。
以後は董卓の補佐役の一人となった。 董卓が王允・呂布らによって殺害された後、董旻も共に殺害された。