-か行-

郭図(かくと、?~205年)

字は公則。
袁紹配下の臣。
官渡の戦いでは、袁紹らの中央軍とは先に黄河を渡り攻め進んだ。
だが、自らの進言によって袁紹軍の敗戦が濃厚になってしまい、郭図は張コウに責任を押し付け多くの讒言をした。 袁紹が死去するとその長男である袁譚を後継者に推戴し、その参謀役となるが、袁譚が曹操に攻められたとき、共に殺された。



何進(かしん、134年? ~189年)

字は遂高(すいこう)。
中国後漢末期の政治家。南陽(河南省南陽)宛の人。
妹が皇后になったことで顕官を歴任し大将軍となり、黄巾の乱の鎮圧に当たった。 鎮圧後に専権を振るうが、宦官・十常侍の一掃を謀った際にこれが露見し、逆に謀殺された。



華佗(かた、?~208年)

中国の後漢から三国時代の薬学・鍼灸に非凡な才能を持つ伝説的な名医。
呉の周泰の重傷を治療し、荊州の関羽の元へ自ら出向いて骨を削って治療を施した。
関羽の腕に刺さった毒矢の治療を行ったのも彼である。
その後、220年の曹操が死ぬ寸前に現れ、曹操の頭脳を手術しようとしたために怒った曹操に捕らえられて投獄され、拷問によって殺されたとされている。



華雄(かゆう、?~191年)

董卓配下の猛将。
董卓軍の先鋒を務めた。
汜水関では孫堅を破り、勢いに乗って攻め寄るが、関羽に討ち取られた。
正史では、孫堅に敗れ、斬られている。



韓遂(かんすい、?~215年)

字は文約。
涼州の盟主。
義兄弟の馬騰が曹操に討たれ、馬騰の子・馬超と挙兵する。 しかし離間の策にかかり、曹操に降伏しようとして、怒った馬超に左腕を斬られた。



顔良(がんりょう、?~200年)
-関羽に斬られた袁紹軍の猛将-

袁紹配下の猛将。
白馬の戦いでは先鋒となり、曹操配下の武将である魏続と宋憲を討ち取った。続いて、勇将・徐晃をも敗走させたが、当時曹操の幕下にいた関羽に一合で斬られた。



献帝(けんてい、181年~234年)

在位189~220年。
字は伯和。
霊帝の子で、劉協ともいう。
後漢第14代皇帝にして後漢王朝、最後の皇帝。
189年に霊帝が死去し、はじめ霊帝の長男の少帝辯(献帝の異母兄)が皇帝に立てられたが、董卓が強引に少帝を廃し、献帝を皇帝に立てた。少帝は翌年董卓によって殺された。
その後反董卓の軍が挙がると董卓は献帝を連れ長安に遷都した。
のちに董卓が呂布に討たれ、献帝は董卓の部下李(李カク)、郭汜らの下にあったが、彼らが内紛を起こしたため、これを逃れて東へ逃亡。 紆余曲折の末、曹操の庇護下に置かれる。
以後は曹操に利用されるところとなり、220年、曹操が死去すると献帝は曹操の後を継いだ魏王・曹丕(魏文帝)に禅譲し、山陽公の位を与えられた。



厳白虎(げんはくこ、生没年不明)

呉郡の独立勢力の頭目。
一万人以上の勢力を有していたが、孫策により平定された。「東呉の徳王」と名乗っていた。
弟が斬殺された後に、親交があった会稽太守の王朗を頼り、孫策と戦うが、大敗し逃亡を図るも呉将の董襲に惨殺された。



公孫瓚(こうそんさん、?~199年)

字は伯珪(はくけい)。
幽州の将軍。 容姿美麗で美声の持ち主、明るい性格。
白い具足をつけ、白馬に乗っていたため白馬将軍と呼ばれていた。
虎牢関の戦いの後、袁紹に騙され(その折に従弟の公孫越を殺された)、それに怒り袁紹と戦った。 しかし、そこで袁紹配下の文醜にあわや討たれる寸前までに追い詰められた。 さらに、二度目の戦いでは自慢の白馬陣を用いて戦ったが、袁紹の罠に嵌りまたも討ちとられそうになる。そこで、董卓から命令された天子(帝)が勅命を送りとりあえずいちど争いはそこで止まる。 しかし、袁紹とは終生争う敵であった。 そして199年、袁紹の軍に囲まれ自害する。



公孫越(こうそんえつ、160年?~191年)

公孫瓚の従弟で、武勇に優れた勇将であったと言われている。
公孫瓚が袁紹と争い始めたとき、公孫瓚は袁紹の側背を突くため、袁術と手を結んだ。このとき、公孫越は公孫瓚の命を受けて袁術のもとへ同盟の証として援軍の将として送られたが、途中で袁紹軍の待ち伏せに遭い、その乱戦の中で流れ矢に当たって死亡した。



黄祖(こうそ、?~208年)

劉表の部下。
江夏太守だったが、孫堅との戦いで大敗した。
配下の甘寧を賊出身だからと冷遇し、呉に去られてしまう。 のち呉の将となった甘寧によって斬られた。



皇甫嵩(こうほすう、 ?~195年)

字は義真。
後漢の臣。
黄巾の乱では、張梁、張宝の軍を火攻めで破り、張角の墓を暴いて遺骨から首を挙げた。 一時は隠棲していたが、董卓死後朝廷に復帰する。