-あ行-

于吉(うきつ、?〜200年)

琅邪の道士。
その先祖以来、東方に萬居をし、呉会(呉郡・会稽一帯)を行き来して精舎(道教徒の集まる教会)を建て、香を焚き道教経典を誦読し、符や神聖な水を用いて病気の治療を行っていた。
孫策は配下の将が于吉を妄信することに怒り、「邪教を禁じ、迷信をはらうため」と于吉を斬った。 以後、于吉は亡霊となって孫策につきまとい、重傷を負っていた孫策を死に追いやったといわれる。



袁術(えんじゅつ、?〜199年)
-帝位を僭称した利己的な野心家-

字は公路。
後漢の南陽太守。袁紹は異母兄とも従兄ともいわれる。
孫策に兵士を貸す代わりに、「伝国の玉璽」を預かった。 これをもって、自ら皇帝を称するが、人徳がなく悪政を敷いたため滅亡した。



袁紹(えんしょう、?〜202年)
-曹操に敗れ去った名門の御曹子-

字は本初。四世三公の名門・袁家の御曹司。
曹操が計画した反董卓連合に参加し、その盟主に推薦された。 緒戦は善戦したものの、後に諸将の意見を統率できず連合は瓦解。 以後は冀州を基盤に勢力を拡大し、智将・猛将を多く抱えたが、名門の生まれゆえに決断力が乏しく、多くの好機を逃した。
結果、官渡の戦いで、圧倒的不利な立場にあった曹操軍に打ち破られた。 この時の心痛がもとで病没。 優柔不断だったがために、戦乱の世をまとめることができなかった。

袁譚(えんたん、?〜205年)

字は顕思。袁紹の長子で袁尚の兄。 袁紹の勢力拡大に伴って、青州の刺史に任じられた。 袁紹が死去すると、その後を弟の袁尚が継いだのに不満を持って対立する。 曹操と結び袁尚を討つことに成功したが、結局曹操に付け込まれて攻められ討たれてしまう。
袁煕(えんき、?〜207年)

字は顕奕。
袁紹の次子。
袁紹が勢力を大きくなるに伴って、幽州刺史に任じられている。 弟の袁尚が曹操および袁譚に敗れると、これまで曹操と敵対していなかったにも関わらず、あえて袁尚を助けた。 この行動は幽州の豪族に反感を抱かれ、結果焦触ら多くの離反を招いてしまう。
その後、烏丸の土地に逃れてその協力を得るも、曹操に再び敗れ、最後は遼東の公孫康を頼って落ち延びる。 助命は受け入れられず、曹操を恐れた公孫康に袁尚ともども斬られ、その首は曹操のもとに送られた。



袁尚(えんしょう、?〜207年)

字は顕甫。
袁紹の三男。
容姿に優れていたことから袁紹に寵愛された。
袁紹死後、当主の座を巡り、長男・袁譚と争う。のち曹操に敗れ、幽州刺史の次男・袁煕を頼った。



王允(おういん、137年 〜192年)

名門の出で、霊帝のとき、予州刺史として黄巾軍の反乱を平定した。
190年、董卓が洛陽から長安への遷都を強行する直前、司徒に就任した。
董卓の振舞いに心を痛めていた際、我が子のようにかわいがっている美しい歌妓の貂蝉が、
「自分を役に立ててくれ」といい、「連環の計」を画策する。
この「連環の計」はみごとに成功し、恨んだ呂布によって董卓は暗殺されてしまう。