-さ行-

諸葛亮(しょかつりょう、181年~234年 )
-劉備によって出路した三国一の天才軍師-

字は孔明。
諸葛豊の子孫。諡は忠武侯。伏竜、臥龍という別称もある。
三国史上屈指の大軍師。
軍師の存在を必要としていた劉備の「三顧の礼」に応じ、出廬(しゅつろ)して劉備陣営に加わる。 以後は赤壁の戦いや荊州争奪戦に大いに活躍し、その名を一躍天下に轟かした。
劉備死後も忠節を尽くし、劉備の子・劉禅に出師の表を上奏して北伐を開始した。 しかし彼の奮闘むなしく戦果はなかった。
延命の祈祷も失敗し、遂に五丈原にて没する。 この時の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事は有名。



諸葛瞻(しょかつ せん、227年~263年)

字は思遠。
諸葛亮の長子で、子には諸葛尚、諸葛京らがいる。
才能は父・諸葛亮に及ばなかったが、誠実な性格で、劉禅の娘を妻に迎え、蜀皇帝の外戚として重きをなしていた。
魏の鄧艾が攻めて来るに至って劉禅の命により出撃する。綿竹に立て籠もって戦い、一度は勝利するも鄧艾の猛攻の前に苦戦。 呉に救援を依頼するがその援軍を待たずに出撃。 鄧艾は、手紙を送り降伏を勧めたが、諸葛瞻は受け入れず、息子の諸葛尚と共に最後まで戦って戦死した。
蜀の滅亡に際し、孔明の名を辱めぬ働きをし、最後を飾った武将であったといえる。



孫乾(そんけん、生没年不詳)

字は公祐。
最初は陶謙に仕えていた。
主に袁紹や劉表などに対して外交交渉でその手腕を発揮し大いに活躍し、劉備の篤い信頼を得た。
劉備が蜀を善政を敷いた直後、秉忠将軍に昇進したが、間もなく病を得て死去した。