-な・は行-

馬謖(ばしょく、190年 ~228年)
-泣いて斬られた諸葛亮の若き愛弟子-

字は幼常。
馬良の弟。 兄と共に伊籍に推挙され、劉備に仕えた。
孔明は馬謖の才能を評価したが、劉備は口先だけで実が伴わない人物だと答えた。
劉備の死後、南蛮制圧において孔明に、「心を攻めるが上策」と献策したり、司馬懿を流言飛語で失脚させるなど大いに活躍し、孔明は馬謖を信頼して可愛がる。 しかし街亭の戦いで大失態を演じ、孔明は軍規に則して泣く泣く馬謖を斬った。
「泣いて馬謖を斬る」の故事はここから生まれた。
劉備の忠告があったにも関わらず悲惨な結果になってしまったことを悔やんだ孔明は、後に劉禅に自ら降格を願い出ている。



馬岱(ばたい、生没年不明)
-諸葛亮の任務を忠実に遂行した、後期蜀の武の要-

字は不明。
馬超の従弟。
渭水の戦いで馬超と共に曹操に挑むが敗れ、張魯の食客となる。 その後、蜀に侵攻した劉備に帰順。
南蛮制圧では敵将・忙牙長を一突きにし、孟獲らを捕らえるなど獅子奮迅の活躍を見せた。
北伐では左軍領兵使として出陣し、的確な助言で蜀軍を有利に導いた。
孔明の死後もその遺言に従って魏延を倒し、蜀のために尽力した。



馬超(ばちょう、176年 ~222年)
-曹操への復讐に燃えた神威大将軍-

字は孟起。
父・馬騰を曹操に殺されて仇討ちを挑むが、曹操の姦計にかかり敗北。一時的に漢中の張魯の下に身を寄せる。
この頃、劉備の軍勢は入蜀を始めていた。 当初は張魯の命により劉備軍と争っていたものの、孔明の策にかかり、これに帰順。
入蜀後、功績を称えられて五虎大将に任ぜられる。
以後は獅子奮迅の活躍を見せ、戦場での華々しさから「錦(きん)馬超」と称された。



馬良(ば りょう 187年~ 222年)

字は季常。
若い頃から眉が白かったことから“白眉”とあだ名され、後年は秀才中の秀才のことを指す言葉となった。
名門・馬家には五人の子どもがあり、5人皆、字の名に“常”という文字を持っていた。 長男の馬良は中でも秀才の誉れが高く、『馬氏の五常、白眉が最も良し』と人々は言った。
劉備が蜀へ入ると、関羽の補佐役として荊州に留まり、樊城攻めでは、援軍を求めに成都へ走ったが、間に合わなかった。
呉遠征のときは、劉備に適当な勝利を収めてから和睦するよう勧めたが聞き入れられなかった。
最期については、はっきりとした記録はなく、正史によると南蛮の異民族鎮圧に向かう途中、夷陵で殺されたとされている。



糜竺(びじく、?~221年)
-劉備に妹と資金と奴僕をも提供-

字は子仲。
徐州の太守・陶謙の配下であったが、劉備の徐州入りの際、劉備と知り合い、それ以後、劉備の行く所に付き従った。 自分はもとより弟の糜芳も従わせ、妹を劉備の側室にするなど、劉備の人間性に惚れていたという。 徐州攻防戦に敗北した劉備に従い、劉備が袁紹の客分になったときも、ともに行動した。
劉備が蜀を得ると、安漢将軍に任命されるが、これは諸葛亮を上回る官位だった。そのような官位を与えられながらも、一度も軍を率いる事は無く、人を統率するのは苦手だったとされている。
一方で弓馬の術に長け、糜竺から、子の糜威、孫の糜照まで全てがその道の達人だったという。
関羽が荊州で打首になった際、弟・糜芳が呉に寝返り、彼は責任を感じたが、劉備は糜竺に対し罪を問わなかった。 しかし、それを負担に感じ怏々として、その後病を発し一年後に死んだ。



糜芳(びほう、?~?)

字は子方。
糜竺の弟で糜夫人の兄。
はじめは兄の糜竺と共に徐州牧・陶謙に仕え、次いで劉備に仕えた。武将としては下級武将であった。
関羽が北上し、樊城攻略を開始すると、糜芳と傅士仁は物資補給など後方からの支援に徹し、全力で支援をしなかった。
また、南郡城内で失火事件が起こり、軍器がいささか焼失した事があった。これを聞いた関羽がそれらの不始末に対し激しく咎めた。 これ以降、糜芳は関羽を恐れるようになり、両者は不和となった。
それに目を付けた孫権が内応を持ちかけると、糜芳は呉と通じるようになった。
呂蒙が南郡攻略を開始すると、糜芳ははじめ城に立て籠った。しかし、傅士仁が呂蒙と共にいるのを見ると、酒と肉を用意し、城門を開いて呂蒙に降伏した。 劉備が呉討伐を開始した時、傅士仁と糜芳を殺して蜀に戻ろうとする荊州出身の兵士を恐れ、劉備の親戚であるから処刑されないとして、傅士仁と共に馬忠を殺し、その首を手土産にして蜀軍に戻ろうとする。 しかし、関羽を裏切った事への劉備の怒りは収まらず、劉備自らの手で傅士仁と共に斬り殺される。



費詩(ひし、176年~?)

字は公挙。
劉璋に仕えて綿竹の令を務めていたが、劉備が攻めて来ると率先して降伏し、その家臣となった。
劉備が蜀を平定すると、督軍従事に任じられる。
常人の数倍の速さで書物を読み、一度読んだ書物は決して忘れることはなかったという能吏型の官僚であった。このため、順調に劉備のもとで出世したが、劉備が皇帝に即位しようとしたとき、これに反対したため劉備の怒りを買って、永昌従事に左遷された。
劉備の死後、諸葛亮に重用された。



法正(ほうせい、176年 ~220年)
-劉備への蜀献上を画策した謀士-

字は孝直。
彼の故郷が飢饉に襲われたため、同郷の孟達と共に益州へ赴いて劉璋に仕えたが、重要されなかった。 これにより長くその才能を開花できずにいたが、劉備が荊州を手中に収めると、張松と共謀して劉備に益州を統治させようと画策。結果劉備の入蜀が果たされ、彼は重職に就任した。
以後も定軍山で夏侯淵を打ち破るなど活躍したが、夭逝する。
後に孔明は、法正がいれば夷陵の敗戦はなかったと嘆いている。



龐統(ほうとう、178、179年~213、214年)
-奇怪な容貌が災いした名戦略家-

字は士元。
伏竜(諸葛亮)・鳳雛(龐統)と並び称された大賢者。
赤壁の戦いでは曹操の船団を鎖で繋ぎ合わせ、連環の計を成功させた。 これにより呉軍は大戦果をあげることになった。この功により孫権に仕官するよう勧められたが、孫権が龐統の醜態ぶりを嫌ったのを見て見限り、孔明の推挙を経て劉備に仕えた。
以後は劉備の入蜀に尽力したが、惜しくも落鳳坡で敵の伏兵に襲われ戦没した。