-あ行-

伊籍(いせき、生没年不明)

字は機伯。
若い頃から同郷の荊州牧・劉表の元にいた。
劉表から贈られた馬が的盧といわれる凶馬である事を劉備に教えたが、劉備は
「人の生死はすべて定まったもの。たかが馬一匹にそれを変える力もござるまい。」
と返事され、高い見識に感服して劉備と交流するようになった。
劉表が死に劉宗が曹操に降ると伊籍は弔問にかこつけて進軍するよう進言したが、劉備は聞き入れなかった。以後伊籍は劉備の配下として働くことになる。
馬良・馬謖を推薦し、劉備の幕僚陣を強化させた。 益州平定後も荊州に残り、関羽のもとで参謀として活躍した。



尹賞(いんしょう、生没年不明)

魏の天水太守・馬遵の下で主簿を務めていた。
228年、諸葛亮が第一次北伐でキ山に侵攻してきた際、馬遵には姜維等に異心を抱いて逃亡。 孤立した尹賞は姜維と共にやむなく蜀に投降する。
蜀でも重用され、執金吾まで昇進している。



尹黙(いんもく、生没年不明)

字は思潜(しせん)。
学問に励むために荊州に出て司馬徽に師事する。
その後参謀として劉備に仕え、220年には劉備に帝位につくよう諸葛亮らと共に上奏した。 学問に秀でていたため、劉備が蜀を平定した後は、劉禅の太子僕に任命され、教育係となった。



王平(おうへい、?~248年)
-的確な助言を与えるミスター”副将”-

字は子均。
もとは魏の将軍だったが、漢中攻防戦の際に徐晃と対立し劉備に降る。
街亭では山上に布陣しようとする馬謖を諌め、結果として聞き入られなかったものの、敗勢の中で善戦した。 北伐の際は張翼とともに奮戦、木牛・流馬を使って見事に勝利を収める。



王甫(おうほ、?~219年)

字は国山。
人物談義や議論を好み、劉璋の時代、州の書佐となった。
劉備が蜀を占領すると、緜竹の県令を経て荊州の従事となった。 劉備の呉討伐に従軍したが、夷陵で大敗し、そのとき殺害された。
演義では関羽の補佐として、沢山の助言をし、その通りに進んでいく。最後は関羽の後を追って周倉と自害する事になっている。