周泰(しゅうたい、 生没年不詳)
-若き孫権を身をもって救った忠義の臣-
字は幼平。
孫策が父を失い袁術の下に身を寄せている時に、蒋欽と共に出会い配下となっている。
戦場ではたびたび手柄を上げ、別部司馬に任じられる。
孫権は彼をとても気に入り、孫策に強く頼んで自分の配下にしてもらっている。
異民族討伐時に、油断して敵に取り囲まれてしまった孫権を身をもって守り救った。孫権は無事だったが、彼は瀕死の重体で体には無数の傷があった。 その後孫権は彼をとても信頼するようになり特別に優遇した。
|
周喩(しゅうゆ、175年~210年)
字は公瑾。
孫策とは義兄弟。 その容姿端麗さから「美周郎」と謳われていた。
孫策挙兵時より付き従い、孫策が死ぬと、その弟・孫権を補佐して呉の隆盛に貢献した。 しかし赤壁の戦いで鬼才ぶりを発揮する諸葛亮を妬み、彼を暗殺しようと色々な策を試みるが、全て読み通されて悔しさのあまり絶命してしまった。
彼自身が秀才だったがゆえに、それを遥かに超えていた諸葛亮の才能を嫉妬せずにはいられなかったのであろう。
|
周魴(しゅうほう、200年?~?)
字は子魚。
周處の父。 呉郡陽羨の人。
孫権に仕え、旛陽の太守を務めていた。
228年、魏の曹休に対して七通の孫権への不満をつづった書状を送り、内通することを曹休に約束した。 曹休は当初、これを信じなかったが、周魴が剃髪して呉に攻め込んでくれるように嘆願してきたため、信じてしまったという。
そして、曹休は周魴の謀略にかかって呉に攻め込み、待ち伏せていた陸遜の呉軍に大敗を喫してしまった。 この功績により、孫権から関内侯の地位を与えられた。しかし、この功績をいいことに、奢り高ぶって周囲から非難を受けたといわれている。
|
朱然(しゅぜん、182年~248年)
字は義封。
呉の名将。孫策の仲立ちで朱治の養子となった。
孫権と机を並べて勉強した為、朱然、孫権両者の絆は深い。
呂蒙に従って荊州を攻略。敗走する関羽を潘璋と協力して捕虜にした。 劉備が仇討ちの為攻めてきた時は、孫桓に従い出陣。呉班の計略にはまるところだったが、崔禹の助言で助けられる。
演義では、劉備が敗走するのを追う途中に趙雲に斬られた。 正史ではそこでは死なず、陸遜亡き後も呉軍の重鎮として活躍。 体は小さかったが、気さくで質素を好み規律正しい武人だった。病死した時は孫権自ら哭礼を行なうほど惜しまれた。
|
徐盛(じょせい、生没年不詳)
-奇策で魏の大軍を退けた呉の新都督-
字は文嚮。
智勇兼備の呉の名将。
周瑜麾下として働いていた頃は特に目立たない武将だったが、赤壁の戦いや合肥攻略、荊州争奪戦において武功を挙げ、孫権から信頼を得る。
その後、曹丕が軍勢を引き連れて呉討伐に現れると、孫権から安東将軍に任ぜられて呉軍を指揮し、偽の城壁を描いて敵を混乱させ、これを打ち破った。
|
孫堅(そんけん、155?156年~191?192年)
-非業の死を遂げた江南の虎-
字は文台。
孫策・孫権の父。
若い頃、たった一人で海賊の群れを打ち倒し、天下に武名を轟かした。 その後、朱儁の下で黄巾党討伐に功を挙げる。さらに南方で区星が反乱を起こすと、それを征討するべく出陣。結果その地の太守となる。
ここで兵力を養った後、反董卓連合に参戦。緒戦を有利に導いたが、味方に裏切られて敗走してしまう。 後に荒れ果てた洛陽の井戸から玉璽を発見したが、結果諸将から疑惑を生み、這這の体で郷里に帰った。
荊州侵攻中に敵の計略にかかり戦没。
|
孫策(そんさく、175年 ~200年)
-君主ながら戦場を駆け巡った小覇王-
字は伯符。
父・孫堅が戦死した後、袁術の下に身を寄せていた。そこで父と自分を重ね合わせ、自分のあまりの不甲斐無さを嘆いて独立を決意。 玉璽を質に袁術より兵馬を借り入れ、江東侵攻を開始する。
劉繇(りゅうよう)、厳白虎、王朗などを打ち破り、遂に江東に確固たる地位を築いた。 こうして彼は父の悲願を達成し、その地の民衆から「小覇王」と称されて慕われた。
しかし彼を恨んだ人物の襲撃を受け、その傷を夜な夜な現れる干吉の亡霊によって悪化させられ、若くして死んでしまう。
|
孫権(そんけん、182年~ 252年4月16日)
-呉を帝国に発展させた長命の名君-
字は仲謀。
兄・孫策の死により江東の領土を継承。内政に力を注ぎ、孫家の最盛期を築く。
曹操に追われていた劉備と手を組み、赤壁で曹操軍を完膚なきまで叩きのめした。それ以後は劉備、曹操と抗争しつつ領土を拡大。 魏、蜀に遅れて呉を建国する。
しかし老齢になった孫権は家臣団の意見を統率できず、国は徐々に衰退していった。 しかし晋に滅ぼされるまで、呉は江東の大地を支配し続けた。
|
|