-ま・や・ら行-

陸遜(りくそん、183年~245年)

字は伯言。
まだ無名だったからこそ、それを逆手にとって利用し、一躍名を馳せた名将。
呂蒙と謀って関羽を油断させ、結果関羽を見事捕縛した。 関羽を殺されて大いに怒った劉備が大挙して呉に侵攻すると、孫権から大都督に任命され、ひたすら防衛に徹する。そして戦線を拡大した劉備軍の隙を突いて火攻めを仕掛け、見事勝利を収めた。 この心痛がもとで劉備は逝去。張飛も劉備が呉征伐を決意しなければ、部下に殺されるという惨めな死に方は避けられたであろうことから、劉備三兄弟は彼に殺されたと言っても決して過言ではない。



陸抗(りくこう、226年 ~274年)

字は幼節。
陸遜の次男。母は孫策の娘。
陸遜が死ぬと建武校尉となり、陸遜配下の兵士五千人を引き継ぐ。 歩闡の反乱、晋の羊祜(ようこ)、楊肇(・・・荊州刺史)の進軍が相次ぎ、いずれの戦いでも指揮をとった。
襄陽攻略はで羊祜と互いを認め合い、平和的な対峙を十年余にわたって続けた。 陸抗が病に臥せった時、羊祜から薬が贈られ、毒に違いないと言う部下を諭し薬を飲んだ事もある。
しかしこのやりとりで孫皓に敵と内通していると疑われ、兵権を剥がされ司馬に降格された。 陸抗がいなくなると、羊祜は呉征討を主張した。
功績があっても奢らない性格で、部下から信頼された。



凌統(りょうとう、189年~237年)
-父の死を胸に刻んで成長した呉の若武者-

字は公績。
呉の将。
凌統が15歳の時、父・凌操が江夏で甘寧に討たれ、父の軍を引き継いだ。 のちに孫権が再び江夏に進軍すると先鋒を任され数十人の兵とともに先行して敵将を討ち功績を挙げた。
合肥の戦いでは張遼の急襲に遭った孫権を身を挺して救出した。



呂蒙(りょもう、178年 ~219年)

字は子明。
若い頃は武勇一辺の人物だったが、孫権に学問の大切さを諭され、以後は必死に勉強する。
短期間での彼の成長ぶりは諸将を驚かせ、特に魯粛は「呉下の阿蒙にあらず」と言って感嘆したという。
荊州攻略戦では、まだ無名だった陸遜を先陣に立てて関羽を油断させ、見事勝利を収めた。 しかし関羽の死後に七つの穴から血を噴いて変死を遂げた。
一説には関羽の霊が彼の体に乗り移ったとされている。



魯粛(ろしゅく、172年~217年)

字は子敬。
中国・後漢末に孫策と孫権に仕えた武将・参謀。
徐州の臨淮郡東城県(現在の安徽省定遠県南東部)の出身。
曹操との赤壁の戦いでは主戦論に立って劉備陣営との提携に成功するなど勝利に貢献するとともに、周瑜の死後は孫権陣営のかじとり役として劉備との同盟関係を強め、曹操と対立した。