-か行-

韓当(かんとう、?〜227年)

字は義公。
遼西郡令支県の人。孫堅・孫策・孫権の三代に仕えた。
武勇に優れた人物で、呉の主要な合戦の大半に参戦して武功を挙げた。
孫堅時代からの宿老でありながら、常に呂蒙や陸遜ら、自身より一世代下の武将のもとに配属し、最前線で活躍した。
軍法に厳格であったが、多くの部下から慕われた。 死後、孫権から虎威将軍を諡された。



甘寧(かんねい、生没年不詳)
-遊侠から足を洗った親分武将-

字は興覇。
益州巴郡の人。
荒くれ者を従えて長く遊侠を好んでいたが、後に学問に励んで劉表に仕える。 しかし上司の黄祖と折り合いが悪く、それに嫌気が差した彼は蘇飛の助けを得て呉に降る。
以後は主家のために命を張って戦い、孫権から
「曹操には張遼がいるが、私には甘寧がいる」
と称されるまでに至った。 劉備の呉征討に協力した武陵蛮の沙摩柯に射殺されて戦没。



虞翻(ぐほん、164年〜233年)

字は仲翔。
呉の重臣、儒学者、易学者。
元は会稽太守・王郎配下の将だったが王郎が孫策に敗れると、孫策に認められ召抱えられる。
孫策死後も引き続き孫権に仕え騎都尉に任じられるが、耳の痛い諫言ばかりいうので、たびたび臣下と衝突し協調できず、地方の職に左遷されてしまう。
のちに呂蒙の荊州攻略の際に同行し、功を立て中央政権に復権をはたす。しかし、その後もたびたび孫権を怒らせまた左遷される。



黄蓋(こうがい、生没年不明)

字は公覆。
孫堅・孫策・孫権の三代に付き従った古参の将軍。
主君に従って各地を転戦し、数々の武功を挙げた。特に赤壁の戦いでは周瑜と協力して苦肉の計を仕掛け、曹操の大軍を見事打ち破った。
ある時は一兵卒と見間違えられてしまうほど前線にたって戦を指揮したが、一方で仁義に篤く、兵士は彼のために命を投げ出して戦ったという。