-た行-

張繍(ちょうしゅう、?~207年)

もともとは董卓配下だった。
彼は戦乱の中、名軍師・賈詡(かく)と共に苑攻防戦では曹操に長男・曹昂と典韋を討つなど壊滅的な打撃を与えた。官渡の戦い前夜には袁紹・曹操両陣営から誘われたが、賈詡の 「弱いほうについた方が出世が早い」 という助言を受けて曹操に投降。以後、官渡の戦い・袁譚討伐戦において、輝かしい功績を挙げ、破羌将軍まで昇格した。
豪勇としたたかさを兼ね備えた名将だったという。 しかし立場的には苦しい立場だったようで、曹丕には
「私の兄を殺した」
となじられていたという。
河北を統一した曹操がさらに北の烏丸討伐の軍を出した時にこれに参加したが、途中で死去した。



張郃(ちょうこう、?~231年)
-諸葛亮が最も恐れた魏の名将-

字は儁乂(しゅんがい)。
河間郡の人。
もとは袁紹の武将だが、官渡の戦いで曹操に帰順する。以後将軍として活躍する。
蜀との戦いで奮戦し、街亭の戦いでは馬謖を破る。
魏建国後には、平西驃騎将軍に昇る。 魏の名将として孔明から最も警戒された。 しかし最後は孔明の計略にはまり、木門道で伏兵にあい矢を受けて戦死。壮侯と謚された。



張遼(ちょうりょう、169年 ~222年)
-呉にとって最も圧倒的な脅威-

字は文遠。
丁原・董卓・呂布と、仕えた主君は必ず滅ぼされるという惨めな運命を辿っていたが、曹操に帰順した後は数々の戦で大活躍。 特に追い込まれた関羽を一時的に曹操に降らせたり、僅か八百の兵で十万を超える呉軍を打ち破った話などが有名。
呉の人々は彼の名を聞いただけで畏怖したという。



陳珪

字は漢瑜。
陳登の父。
徐州の安泰を願って一生を費やした人間。
曹操の命により呂布の撲滅に暗躍する。 呂布の娘と袁術の息子が婚姻する事を知り、それを災いの元と考えそれを阻止するべく呂布を騙し説得する。 呂布は婚姻をやめ袁術の使者を捕らえさらし首にした。
徐々に呂布の信頼を得る様になるが、最後は同士討ちをさせて小沛の城を乗っ取る。 その後曹操に攻められ降伏、そのまま守護となる。



陳登

字は元龍(げんりゅう)。
陳珪の子。 文武に優れ冷静沈着な人物であった。
袁術と呂布のが互いの子供を結婚させる事によって同盟関係になろうとする所を、父の陳珪と共に阻止し、終には呂布を撲滅に追いやった。 呂布の撲滅後はその功を認められ、曹操に使え伏波将軍の位を付与され、また東城の太守なども任されている。



程昱(ていいく、141年~220年)

字は奉孝。
身の丈八尺の偉丈夫。荀彧の推挙で曹操の参謀となる。
関羽を孤立させて曹操陣営に引き込んだり、十面埋伏の計を以て袁紹軍を壊滅させるなど、各所で優れた策を献じた。しかし許都から脱出した劉備を殺害するよう進言したり、姦計で徐庶を劉備から引き離すなど、悪印象な点も多々ある。
強情な性格だったが処世術に長け、八十という長寿を保った。



典韋(てんい、?~197年)
-身を盾にして曹操を守った親衛隊の鏡-

曹操から、「いにしえの悪来(アクライ)のようだ」と言われたことから、悪来典韋と言われたりもする。 
初め、張邈(ちょうばく)の配下だったが、人を殺して山中に逃げていたところを夏侯惇に見いだされ、曹操の配下となる。
典韋は巨漢な上に怪力だったので曹操が親衛隊長に任じると、常に刃渡り一尺の大斧を手にして、曹操を日夜警護していた。 いったんは曹操に降った張邈が反逆して曹操の寝込みを襲ったとき、敵の策略で泥酔させられ戟を盗まれていた典韋は、鎧もつけずに暴れ回り、ついには、素手で八、九人をも打ち殺す。 曹操が逃げ延びるまで、一人で門を守って矢ぶすまの中で壮烈な死をとげた。



鄧艾(とうがい、197年~264年)

字は士載。
司馬懿に才能を見出され、魏に仕えた。 鍾会と共に侵攻し、このとき蜀の要衝であった剣閣を迂回するという奇襲を行い、守将の諸葛瞻らを討ち取った。
さらに、蜀漢の首都成都を攻略して劉禅を降伏させ、蜀漢を滅ぼすという大功を挙げた。 しかしのちに対立。反逆者とされ、囚人護送車によって送還される途中で暗殺された。