-さ行A-

曹操(そうそう、155年〜220年1月23日)
-魏の礎を築いた乱世の奸雄-

字は孟徳。
豫州沛国県の人。
洛陽北部尉に着任し、違反者を苛烈に取り締まる。
『黄巾の乱』において功績を挙げるが、病気と称し隠遁生活に入る。その後反董卓連合軍に参加し活躍。 その後、董卓の元より逃走した献帝を保護し、許昌を都とした。
順調に勢力を拡大し、『官渡の戦い』において袁紹を破り中華の北半分を手中にする。 その後、南部の制圧を試みるが『赤壁の戦い』に破れる。
しかし、漢中の張魯、反乱を起こした馬超、韓遂らを撃破し勢力を磐石とした。
『孫子』に注釈を入れた『孟徳新書』や優れた詩を残す等、文学者としても優れた人物。



曹丕(そうひ、187年 〜226年)
-偉大な父の遺志を継いだ魏王朝の初代皇帝-

字は子桓(しかん)。
曹操と正妻・卞氏との間に生まれた。
早くから曹操のもとで活躍し、曹操が没すると魏王の位に就いて跡継ぎとなった。その後、献帝に帝位の禅譲を迫って皇帝を名乗った。
こうして魏を建国した彼は領内の統治に尽力し、特に陳羣の発案による九品官人法を定めたことは大きな業績となった。
帝位を簒奪した彼の評判は良くないが、曹操の遺領をしっかりと統治したその手腕は評価されている。



曹叡(そうえい、206年〜239年)

字は元仲(げんちゅう)。諡は明帝。
魏の第二代皇帝。
曹丕の死後、後を継いで魏の皇帝となった。
生まれながらにして曹操〔太祖〕に愛され、左右に侍した。斉王・平原王を経て226年に即位した。
曹真・陳群らの輔政の臣を辺地の任に追いやり、政は己より出ずる体制をしいた。 当時、蜀は魏に対して再三戦争を仕掛けてきたが、明帝は司馬懿にこれを防がせ、また呉の孫権が合肥に攻めてきた時は自らこれを撃退し、さらに遼東の公孫淵の反乱にあっては、司馬懿にこれを討たせた。
明帝は沈毅果断で、初めはよく人の直言をいれ、君主の器量があったが、やがて放恣に流れ、さかんに宮殿を営み、内寵にふけり、遊猟を行い、国民を苦しめるにいたった。
明帝の没後、権力は司馬氏の掌握するところとなり、魏の国勢は傾いた。



曹芳(そうほう、232年〜274年)

字は蘭卿(らんけい)。
魏の第3代皇帝で、曹操から数えると4代目(曹操は皇帝に即位していない為)となる。
しかし曹叡には世継が無かった為、実子ではなく養子であると思われる。
曹叡の遺言により3代皇帝に指名され、弱冠8歳で即位するが、実権は曹爽、司馬氏に握られていた。 李豊・夏侯玄・張絹などと謀って司馬氏を退けようとしたが事前に発覚し退位に追いやられる。



曹爽(そうそう、?〜249年)

字は昭伯(しょうはく)。
曹真の子で、明帝(曹叡)には若い頃から可愛がられ重用され次々と昇進している。
明帝が病に臥すと大将軍に昇進し、司馬懿と共に世継である曹芳の補佐を託される。
司馬懿とは常に権力による駆け引きを繰り返し、ついには何の権限の無い太傅に司馬懿を祭り上げて、実権を独占するようになる。
その後は天子を軽視し独断による採択で、蜀領漢中に遠征し大敗するが行いは改まらず、淫楽にふけった。 司馬懿を恐れ部下に様子を見に行かせるが、司馬懿はボケたフリをしそれを信じてしまう。 その後、司馬懿は着々とクーデターの用意をし、翌年の正月、陵墓参拝の際司馬懿に武器庫を占領され、あっけなく実権を失い、三族もろとも処刑されてしまう。

元々は司馬懿を父の様に慕っていたが、周囲が彼をおだて段々と権力欲に浸ってしまったようだ。


曹昂(そうこう、?〜197年) 

字は子脩(ししゅう)。
曹操の長男。
父・曹操ほど優れた武将とは言えなかったが、温厚篤実な人物だったため、家臣からの信望も厚く、将来を期待されていた。
197年、父の曹操は、宛城の張繍(驃騎将軍・張済の族子)の降伏を受け容れたが、その際に張繍の亡き族父の張済の後妻で、未亡人の鄒氏と密通した。 そのため、それに激怒した張繍が、参謀の賈の進言を容れて曹操に夜襲を仕掛けて来た。
敵に襲撃された曹昂は父を無事に逃すため、自らの愛馬(『世説新語』によれば絶影とされる)を曹操に差し出した。 このため、曹操は無事に逃れることができたが、曹昂は張繍軍の攻撃を受けて殺されてしまった。


曹植( そうしょく、192年〜232年)
-才があるがゆえに兄から干された天才詩人-

字は子建(しけん)。“そうち”とも。
曹操の三男で曹丕の同母弟。
曹操・曹丕・建安七子らの詩人の中で、最も傑出とされる。幼少の頃より論語や詩経などを朗読し、文才に長けていた。
曹操は曹植を寵愛したため、兄の曹丕から嫌われ、曹操没後は曹丕との間に後継者争いが勃発。 結果、曹丕が跡継ぎの座を獲得し、以後曹植は各地に転封されることになる。
兄弟が争い合うことを例え、曹丕を感動させた「七歩詩」は有名。



曹彰(そうしょう、?〜223年)

字は子文(しぶん)。
曹操の四男(卞氏の子としては次男)。
腕力が人並み以上に優れており、猛獣と格闘することができたと言われるほど武勇に長けていた。
代郡の鳥丸討伐などの異民族の反乱鎮圧で、田豫と共に大いに活躍し、父の曹操から「黄鬚」(こうしゅ、虎髭を生やしたような勇者の称号)と大いに賞賛された。
兄の曹丕にはその優れた武勇を警戒されて冷遇される。 曹丕が皇帝として即位すると、任城王に昇格となったが、223年に洛陽で急死した。



曹洪(そうこう、?〜232年)

字は子廉。
魏の将。曹操の従兄弟。
曹仁と共に、曹操の挙兵に参じた。魏軍の中核として各地を転戦し、活躍する。
曹丕の即位後は、衛将軍、驃騎将軍を歴任した。



曹休(そうきゅう、?〜228年)

字は文烈(しれん)。
魏の将。曹操の甥。
弓の名手で、曹操の没後も曹丕、曹叡と歴任した。
対呉戦で周魴の計略にかかり、大敗を喫し、その心痛から病にかかって死亡した。



曹真(そうしん、?〜231年)

字は子丹(したん)。
誠実かつ清廉な人物で、部下に対しては常に苦労を共にしていた。
政府からの恩賞が少ない時は自分の財産を部下に分け与えていた事もあり、将兵からの支持は絶大であった。 蜀征伐時に病気にかかり帰還後まもなく死去した。
もともとの姓は秦で、父が曹操の身代わりになって殺された為”曹姓”を賜ったらしく、曹操との血のつながりない。



曹仁(そうじん、168年〜223年)

字は子孝。
曹操が黄巾征伐に挙兵したときから従軍。
関羽に包囲され、水攻めにされたときは樊城にこもり、徐晃の援軍が来るまで守り抜いた。 部下の牛金が単騎包囲されたときは、ただ一人救出に向かい、信頼も厚かった。
若い頃は勇猛な突撃タイプで法を破る無法者だったが、後年は重厚な司令官へ。
曹丕はよく弟を『曹仁将軍のようになれ』とたしなめていたという。



曹純(そうじゅん、?〜210年)

字は子和(しわ・しか)。
曹仁の弟で、曹操とは従兄弟にあたる。
南皮包囲網戦に参戦し袁譚を討ち取る等の功績を上げる(演技では曹洪と言う事になっている。)
長坂の戦いでは劉備を追撃し、二人の娘を捕らえ江陵を降伏させる。 死去の後、威候と謚されている。