-さ行@-

司馬懿(しばい、179年 〜251年8月5日)
-孔明のライバル、魏の実権を握る-

字は仲達。
当時の魏陣営で諸葛亮に匹敵する唯一の策士。
諸葛亮の北伐を徹底した持久戦で阻止し、見事蜀軍を撤退させた。 その後、曹爽一族の陰謀により兵権を奪われるが、見事なクーデターでこれを一蹴り。晋王朝の基盤を築き上げた。
五丈原での孔明とのやり取りは有名で、諸葛亮死没を天文に読んだ司馬懿は蜀陣に総攻撃を掛けるが、逆に反撃されて兵を撤退させた。 世に言う「死せる孔明、生ける仲達を走らす」である。



荀ケ(じゅんいく、163年〜212年)

字は文若。
潁川郡潁南県の人。「王佐の才」があると評された人物。
曹操に仕え、軍師として数々の献策を行った。人を見る目があり、郭嘉、司馬懿、陳羣など有能な人物を多く推挙した。
官渡の戦いでは、後方の守りを担当し弱気になる曹操を手紙で励ました。 しかし曹操が魏公の位につくことに反対し、曹操との信頼関係にひびがはいる。 その直後、病気を発し、憂悶のうちに逝去した。敬昭侯と謚された。



荀攸(じゅんゆう、157年〜214年)

字は公達。
荀ケの甥にあたるが、荀攸のほうが六歳年上。
曹操に仕えるより前に董卓暗殺を計画して投獄されていたが、荀ケの推挙で曹操に仕官した。
多くの献策をして曹操から「外柔内剛の勇士」と褒め称えられる。
「演義」では、魏王に昇ろうとする曹操を諌め、「荀ケの二の舞」になりたいのかといわれ、憤死しているが、「正史」によると、214年、孫権征伐の折に病死している。享年57歳。



徐晃( じょこう、?〜227年)
-大斧を武器に戦場を駆け回る-
 
字は公明。
初めは楊奉配下の将だったが、満寵の説得を受けて曹操に帰順する。
智勇に優れ、曹操軍の主軸として各地を転戦。 樊城で関羽軍に勝利した際、
この功績は(過去の名将である)孫武・司馬穰苴にも勝るものであろう」と語った。

魏の五将軍に数えられる。



徐庶(じょしょ、?〜234年)

「単福」を偽名として名乗った。
新野時代の劉備と出会ってその軍師として迎えられ、新野城の攻防戦では曹仁・李典率いる魏軍五千を二千の兵で迎撃し、見事に打ち破る。
その後、報復と称して曹仁・李典が二万五千の兵で南下するが、曹仁の八門金鎖の陣を見破り、完膚なきまでに叩き伏せた。
程cの策により、徐庶の母親の筆跡を真似た偽手紙を受け取り、止むなく曹操に下ることになるが、去り際に劉備に諸葛亮を推薦する。また、曹操のために献策はしないという誓いを立て、劉備の下を去った。



鍾会(しょうかい、225年〜264年)

字は士季。
蜀攻めを司馬昭とともに計画したが、途中鍾会の軍は姜維率いる蜀軍と遭遇し激しい抵抗にあって、蜀入りをトウ艾の軍に先を越されてしまい、劉禅降伏の功を逃す。
また鍾会は自立の野心を抱くようになり、姜維と組んで独立を計画。264年、征伐時の自軍と姜維の元蜀軍で都に攻め入ろうとしたが、司馬昭は見抜いていて事前に軍を出していた。 焦った鍾会は急いで成都に戻るが部下に裏切られ姜維とともに殺された。享年40歳。



諸葛誕(しょかつたん、?〜258年)

字は公休(こうきゅう)。
諸葛豊の子孫で、諸葛亮の血縁にあたる。
若い時から魏に仕えて昇進を重ねた。 朝廷において名声を集め、人民にも人気が高かったが、曹叡には嫌われ、無実の罪で免職に追いやられてしまう。しかし、曹叡の死後は再び登用される。
反乱鎮圧の命をうけ各地のに派遣され手柄を立て高い位に出世する。 だが、周りの人間が多く殺され、また反乱を起こした人間の事を考えると、自分の立場も危ないと思い恐怖を感じるようになってしまい、ついには呉を巻き込んで本当に反乱をおこしてしまう。 呉も援軍を送り魏軍と戦うが何度も敗れ、最後は腹をたてた呉軍の将に殺されてしまう。