-な・は行-

馬鈞(ばきん、200年〜265年?)

字は徳衡。
発明家であり、若い頃は遊び暮らしていたという。
後に曹叡に招かれて仕えるようになり、博士に任じられ、曹叡の求めに応じて宮殿造営の大工事の監督を務めた。
また、曹叡が不老長寿を望んだとき、馬鈞は長安から柏梁台の銅人や黄金の承露盤などを運ばせたという。 さらに、曹叡に対して機械人形や水転百戯、指南車などを献上した。 諸葛亮が開発した連弩は、まだまだ改良の余地があると評し、自分が作れば5倍の性能を持たせることができると主張した。
また、発石車を連射式に改良し、実験を行った。 傅玄は曹羲に口添えして、曹爽に馬鈞の改良案を採用するよう頼んだが、曹爽は放置して終わったという。



文欽(ぶんきん、?〜258年)

字は仲若。
魏では揚州の刺史の地位にあった。
司馬師の専横に怒り、毋丘倹と共に反乱を起こしたが失敗し、呉に落ち延びる。
257年、諸葛誕が司馬昭に対して謀反を起こすと、それに協力して諸葛誕と共に寿春城に立て籠もった。
しかし諸葛誕とは、魏にいた頃から仲が悪かったため、作戦をめぐって意見が対立し、最終的には怒った諸葛誕によって殺害されてしまった。
文欽は武勇に優れた人物ではあったが、同僚との仲を取ることが下手な人物だったと言われている。 呉に亡命したときも、呉の武将である朱異らと仲が悪く、常に疎まれていたらしい。



文聘(ぶんぺい、生没年不詳)

字は仲業。
元々は荊州は劉表の忠臣で北方の守備を任されていた。
劉j(※劉表の少子)新政権になった時、曹操に荊州を占領されてしまうが文聘はなかなか出頭していかなかった。
曹操が理由を訪ねると、
「国を守る事もできずなんて恥ずべきことだろう、どの面さげてお会いする事ができましょうか」
と言って涙を浮かべたらしい。 曹操は忠臣を発見したと大いに称え江夏郡の太守にし、関内候の爵位も授けた。
曹操・曹丕と忠実に使え江陵遠征時には石梵で呉軍をを撃退し功を上げて後将軍に昇進している。
「演義」では若干違っていて、劉備が荊州での敗走時に襄陽に入れようとした魏延と打ち合っている事などで、”武力のある人物であった”、と世の中から推察されている。