-ま・や・ら行-

龐徳(ほうとく、170年~219年)

字は令明。
馬超と共に渭水で曹操に復讐戦を挑んだが失敗。 一時的に張魯の下へ降る。
その後、益州に侵攻した劉備を迎撃するべく馬超が張魯の兵を借りて出陣するが、龐徳は病により同行できず、これが二人の縁を断ち切る原因となってしまう。
馬超は孔明の計略にかかり、劉備に投降。龐徳は張魯に従い、曹操に降伏した。
以後は荊州で関羽を撃退するなど活躍したが、その関羽に守っていた城を水攻めされ敗退。周倉に捕らえられ、首を刎ねられた。



楊修(ようしゅう、175年?~219年)

字は徳祖。
弘農出身で魏の武将。 学問を好み俊才ありとされ、曹操に仕えて主簿を務めた。
世継ぎ争いでは曹植を曹操の後継者にしようと尽力した。
219年、漢中をめぐる劉備との攻防戦で、曹操軍が苦戦を強いられた時、曹操が言い間違いで出したお布れ
「鶏肋」を、 「鶏肋(鶏ガラ)は、食べるほどには身がないが、ダシが出るので捨てるには惜しい」、すなわち「惜しいが今が撤退の潮時」、
と曲解したことで、曹操の反感・嫉妬を買い処刑される。


李典(りてん、174年~209年) 

字は曼成。
智勇兼備の名将ながら謙虚な人物。
叔父の死によりその後を継ぐことになり、以後曹操麾下の将として各地を転戦。武功を挙げて昇進を重ねていく。
赤壁の戦いでは張遼や楽進と共に合肥に駐留し、呉軍の侵入を防いだ。叔父を呂布に討たれた李典は、もと呂布の臣であった張遼と折り合いが悪かった。 しかし赤壁の折、張遼が私事にこだわって公事を顧みないのは恥だと述べると、李典もこれに応じて共に呉軍に当たることを誓った。



劉曄(りゅうよう、生没年不詳)

字は子揚。
郭嘉に勧められて曹操に仕え、劉曄自身は満寵と呂虔を推薦した。
張繍を降伏させるための使者としてその任務を果たした後、袁紹との官渡の戦いでは「発石車」などを使って戦果を上げた。
曹操が漢中を得た際には、このまま益州を攻めよと進言したが、これは聞き入れられず、曹操は後で悔やむこととなる。 曹丕、曹叡と三代に渡って仕えるが、比較的地味な存在だった。