-か行②-

夏侯惇(かこうとん、?~220年4月25日)
-曹操の信頼が最も厚かった男-

字は元譲。
前漢の高祖に仕えた夏侯嬰の末裔。曹操、夏侯淵とは従兄弟にあたる。
曹操の旗揚げ時から付き従い、各地の戦いで武名を轟かせた。 特に呂布との戦いでは敵将に片目を射抜かれるも、
「これは両親から授かったもの。どうして捨てることができようか」
と叫び、その矢を根こそぎ取って眼ごと喰らったという武勇伝が有名。 しかしそんな豪胆な彼でも諸葛亮の計略には敵わず、博望坂で十万の兵を失うという大失態を演じた。



夏侯淵(かこうえん、162年?~219年1月)
-急襲を得意とする武勇一途の男-

字は妙才。
曹操と夏侯惇の従弟。
夏侯惇と共に、曹操譜代の臣として活躍する。 電光石火の奇襲戦を得意とし「三日で五百里、六日で千里」と賞された。
しかし定軍山の戦いで法正の計略にかかり、手勢を率いて出撃したところを蜀の老将軍・黄忠に襲われ、首を討ち取られた。 奇襲による戦果が多い彼だが、曹操は「指揮官たるもの慎重でなければならない」と忠告していたという。



夏侯威

字は季権。
夏侯淵の息子。
父に似て男気のある人物であったという。荊州、冀州(きしゅう)の刺史を歴任した。 若い頃有名な占い師に、
「あなたは49歳で州牧となりますが、そのときに災難があるでしょう。それを切り抜ければ70歳まで生きて皇帝の後見まで出世するでしょう」
と言われ、確かに彼の予言通り49歳で冀州刺史となり12月の上旬に病気となったので遺言を書き葬儀の準備を行った。
ところが下旬になって快方に向かい、30日には酒席を設けて、
「明日には50歳になり、予言で戒められていた時期を無事に過ごせたのだ」
と喜んだが、寝につくと病気が再発し、夜半には亡くなったらしい。
演義では夏侯威は夏侯淵の次男で弓矢の剛の者として、夏侯覇と共に司馬懿の元で五丈原で活躍するとあるが、残念ながら正史には上記以外に名前は見当たらない。


夏侯恩

演義に登場する、曹操の側近で剣持の大将。
曹操から宝剣「青釭」を預かっていたが、長坂の戦いで略奪を行おうと陣を離れた所、運悪く趙雲に出会い、突き殺されて宝剣「青釭」を奪われた。



夏侯恵

字は稚権。
夏侯淵の息子。
魏書・夏侯淵伝によれば、幼いころから学問と文才を評価されており度々軍師達と議論を交わしたが、夏侯恵の意見が採用されることの方が多かった。 散騎、黄門侍郎を歴任し、燕の相、楽安太守を務めたが37歳の若さで亡くなった。
演義では他の兄弟達と共に五丈原で活躍するが、史実では文官だった事が分かる。



夏侯尚(かこうしょう、?~225年)

夏侯淵の従子(おい)で曹丕とは幼い頃からの親友である。
戦乱の最中をその中心で駆け回った。 曹彰の参軍として活躍し、 曹操が死ぬと洛陽から節(責任者のしるし)を手に曹操の棺を奉じて鄴に帰還した。
曹丕が帝位に即くと征南将軍に昇進。 曹丕に対して
「蜀が上庸に駐屯していますが山道が険しく警戒されていません。奇襲攻撃をかければ一方的に勝利することができます。」
と上奏を行い、認められた。 予告通り申耽、申儀を降伏させ、 劉封を追い払って上庸を平定し、征南大将軍に昇進した。
その後も対呉最前線で活躍している。
「魏書・夏侯尚伝」では、夏侯尚にはお気に入りの妾がおり、曹氏一族の正妻をないがしろにして妾を溺愛した。 見かねた曹丕は刺客を放って妾を殺してしまう。 夏侯尚は悲嘆の余りボケてしまい、葬儀の後に墓を掘り返して妾の顔を見るような有様だった。 曹丕は夏侯尚を非難したが、それでも夏侯尚に対する寵愛が薄れることはなかった。 ほどなく死去し、悼侯とおくり名された。子の夏侯玄が後を継いだ。



夏侯徳

夏侯尚の兄。曹洪配下の武将。
漢中攻防戦の際、天蕩山に駐屯。 蜀将・厳顔の火計で山に火が着いたので消化に駆けつけるが、そこを斬り殺された。



夏侯覇(かこうは、?~262年) 

字は仲権。
夏侯淵の長男。魏、のち蜀に仕えた武将。
司馬懿に推挙され、弟ともども対蜀戦に従軍する。 司馬懿が魏の大権を握ると、身の危険を感じて蜀に降った。 その後、姜維とともに北伐に赴くが司馬望の待ち伏せに遭い、矢玉を受けて戦死する。



夏侯楙

字は子林(子休との説も)。
夏侯淵の子で夏侯惇の養子。(正史では夏侯惇の子。)
何の能力も無い暗愚の武将で、金儲けが趣味であった。その無能で気位の高い所を敵に様々に利用された。 彼は曹操の娘・清河長公主を娶るが、他にも多くの妾を囲っており、そのため清河公主とは仲が悪かったと言われている。



夏侯和

字は義権。
夏侯淵の三男。
魏書・夏侯淵伝では、弁舌さわやかで才気に満ちた議論をしたという。
鍾会が蜀で謀反を起こした際、相国左司馬だった夏侯和は使者として成都に滞在していた。自らの危険を顧みず、鍾会の謀反に組みせずに忠義を貫いたので後にその功績で郷侯となったとある。
「演義」では夏侯淵の四男。 兄の夏侯恵とともに行軍司馬となり、 司馬懿の配下で諸葛亮と戦う。
上方谷で夏侯恵とともに司馬懿に今のうちに蜀軍を討つよう進言する。蜀軍は孔明の筋書き通りに負けを繰り返したため、兵糧を奪う戦功を立てた。
しかしこれは孔明のおびき寄せ作戦であり、司馬懿親子は谷間に追い込まれて焼き殺されるところであったが、突然の豪雨に救われた。 『ことを謀るは人が謀り、事を成すは天が成す。』というのがここでの孔明の名言。