-か行①-

賈詡(かく、147年~223年)

字は文和。
若い頃から、「張良、陳平に匹敵する」と言われていた。
189年、董卓が洛陽に入場した時に召されて仕える。 董卓が暗殺されると、李カク・張済に長安攻略を立案。二人が呂布に敗れると、今度は張繍に仕え、その策略で何度も曹操を苦しめたが、官渡の戦いの際に張繍に曹操に降るよう勧め、それからは魏の陣営で戦略を献策した。
しかし、降将の立場をわきまえ、重用されても奢ることなく、人付き合いは慎重でひっそりと暮らし、七七歳で世を去った。



楽進(がくしん、? ~218年)
-小さな体から度胸溢れる、魏軍最古参将軍-

字は文謙。
曹操の挙兵時より従った古参の武将。 間もなく曹操が董卓討伐軍を起こした時、仮司馬・陥陣都尉となり、以降多くの戦いで一番乗りとして手柄を挙げた。 赤壁の戦い後は張遼の副将として合肥の守備にあたる。
大軍を率いたという記録はないが、指揮官としての働きもまずまずだったらしく、曹操は彼を徐晃・于禁などとともに五将軍に任命している。 しかしその後の濡須口の戦いで、呉将・甘寧の矢を受けて落馬、以後物語から姿を消す。
正史では218年に病没している。



郭嘉(かくか、170年 ~207年)
-三国志史上きっての奔放なる軍師-

字は奉孝。
曹操の名参謀。
大軍の袁紹軍を相手にして弱気になる曹操を励まし、圧倒的に不利だった曹操軍を勝利に導いた。 そのため曹操から絶大な信頼を寄せられて期待されたが、惜しくも若くして病没してしまう。
後に赤壁の戦いで大敗北を喫した曹操は、
「郭嘉が生きていたら、こんな惨めな結果にはならなかった」
と声を上げて嘆いている。



許褚( きょちょ、生没年不詳)
-「虎痴」と呼ばれて信頼された、曹操の二代目親衛隊長-

字は仲康。
身の丈八尺あまりの巨漢で剛力の持ち主。
当初一族郎党と共に黄巾賊に反抗していたが、曹操が汝南に侵攻した際に典韋と賊の頭目の奪い合いになった。 ここで許褚は典韋と互角に打ち合ったため、曹操は彼に仕官を勧めた。 以後は曹操の片腕として各地を転戦し、特に渭水の戦いでは馬超の猛攻から曹操を救うなど活躍した。
普段はぼんやりしているが、戦場では打って変わって勇猛になったため、「虎痴」の異名を持つ。



公孫淵(こうそんえん、?~238年)

今で言う満州のあたりを治め、(袁家滅亡時に袁尚の首を曹操に送り届けて左将軍に任じられた)公孫康の子供。
その時彼はまだ幼く、後継は弟の公孫恭になった。しかし公孫恭は凡庸で国を治める力が無く性的にも不能者で後継者を残すことができないのにつけこみ位を奪い取ってしまう。
元々野心家で義理や正義などは持ち合わせておらず、自分や金中心に物事を考える人物だった。魏に使える裏で呉とも通じており、燕王と認めさせている。
魏にも忠誠を示す事も無く237年には刺史を斬って燕を建国する。 翌年すぐに司馬懿が討伐軍を組織し出兵。燕軍はもろくもやぶれ城を包囲された。やがて食料もそこをつき、逃げ出すも捕まって斬殺されている。