-女性-

安陽公主

曹操の娘。荀彧の長子・荀惲の妻。


華喬

曹操の養女で、曹丕・曹植の義兄妹。夏侯惇の妻。
傾国の美女と評された。
歌舞に優れており、その舞いと容貌で何人もの男性を虜にしたという。
曹操から大変可愛がられ、信頼の厚かった夏侯惇の元へと嫁ぐ。
結婚後は二子を設け幸せな暮らしを送るが、夫は財産はすべて人々に分け与えていたというから、生活は質素だったと思われる。



郭皇后(かくこうごう、184年 ~ 235年)

字は女王。
魏の文帝(曹丕)の皇后。
後漢末に南郡太守を務めた郭永の娘で、幼くして孤児となった。 曹操が魏公のとき、曹丕に嫁ぎ、後継者の地位を確立するのを助けた。曹丕が魏王となると、夫人となった。 曹丕が帝位につくと、貴嬪となった。
帝の寵愛は甄姫から彼女にうつり、帝は甄姫に死を賜った。 黄初三年(222)、皇后に立てられた。 明帝(曹叡)のとき、太后となり、『永安宮』と称した。



夏侯氏

夏侯惇の姪で、張飛の妻。「張夫人」ともいう。
まだ劉備主従が放浪している頃、張飛が見初めてさらって来て、そのまま妻にした。 息子二人(張苞・張紹)と娘二人(敬哀皇后・張皇后)をもうけた。
息子の一人は猛将の血を受け継いだ素晴らしい武将に、もう一人は優れた政治家となり、娘は聡明さと美しさで皇后にたてられている。



夏侯令女

夏侯文寧(※)の娘。 曹爽の従弟である曹文叔と結婚したが、文叔は早死にしてしまったため、子供のないまま未亡人となってしまった。 服喪が終わると彼女は実家に必ず再婚させられると思ったので自分の髪を切り取って変わらぬ心を表そうとした。それでも親族は再婚させようとしたため、その話を聞くと彼女は即座に自分の耳を切り落としてしまった。
曹爽の元に引き取られて暮らしていたが、曹爽が殺されると彼女の叔父は彼女と曹氏との縁を切って彼女を無理矢理に引き取った。


(※)夏侯文寧(かこうぶんねい、生没年不詳)
一説では夏侯惇の親族らしいが、系譜上の連枝関係は未だにわからない(但し、一世代下の族子のようではある)。なお、“文寧”は字で名は不明である。


甄姫(しんき、182年? ~221年6月28日)

曹丕の正夫人。
元は袁紹の次子の袁煕の妻であったのだが、滅亡時に捕らえられ、報奨として曹丕に与えられた。 その名も高き絶世の美女であり、曹丕は彼女をとても愛したが、そのうち年齢と共に容色が衰え、愛も薄れ彼女は遠ざけられる。
その恨み言を密かにつぶやいたのを咎められ、邪魔物扱いになっていた彼女は死を命じられた。 歴史に翻弄された、悲しい女性の寂しい終わりである。



芻氏(すうし、生没年不詳)

曹操の妾の一人。
元は車騎将軍:張済の妻だったが、戦死後甥と共に過ごしていた時に、曹操に見初められたのが始まり。 それを見た甥の張繍が怒り、計略を持って曹操を襲撃。油断した上に緻密な計略をもって襲撃されたために、曹操軍は大混乱に陥った。 曹操自ら負傷し、親衛隊長の典韋と息子の曹昂、甥の曹安民を戦死させるという大損害を受けた。 その乱戦の中、芻氏の行方は遥として知れない。おそらくは兵士によって殺されたのだろう。



清河長公主(せいかちょうこうしゅ、生没年不詳)

曹操の長女で、生母は早世した劉夫人。
曹昂は同母兄で、曹丕は異母弟に当たる。華喬の義姉。 安西将軍・夏侯楙の妻。
曹操ははじめ清河長公主を丁儀に嫁がせようとしていたが、曹丕が「丁儀は男ぶりが悪い」とか、「盲である。」などと言って幼馴染の夏侯楙を推挙した経緯がある。
曹操はあとから丁儀の明晰なことを知って清河長公主を丁儀に与えなかったことを悔やみ、丁儀は曹丕のことを怨んで、跡継ぎ問題の時に曹植を支持した為に、曹丕が王位についた後殺された。



張春華(ちょうしゅんか、189年~247年)

司馬懿の正室。子に司馬師・司馬昭・司馬幹・南陽公主らがいる。
若い頃から徳行に秀で、人並み以上の知識を持っていた。
司馬懿が仮病を使って曹操の招聘を拒んでいた時分、仮病を忘れて干していた書物を取り込むところを下女に見られてしまった為、張春華は秘密が洩れないように下女を殺して口をふさいだ。 その後、司馬懿の寵愛は次第に柏夫人に移り、病床を訪れた張春華は司馬懿に、
「憎たらしい老耄奴、何しに来たのか」
と言われた事を恥じて自殺した。
息子の司馬師・司馬昭はこの行為に抗議して食事を取らなくなったので、司馬懿は二人に詫びを入れた。 しかし、司馬懿は息子達が去った後、謝った理由を述べて、
「あんな老耄は惜しくも何ともない。私が謝ったのは、出来がいい息子達の事を慮ったからだ」
と言ったという。



東郷公主

曹丕と甄姫の娘で曹叡の妹。 若くして早世する。


下氏(べんし、生没年不詳)

曹操の妾であったが、正式に皇后に立てられた夫人。元々は街の娼妓だったのを、曹操が見初めて夫人に迎えたのである。
しかし、彼女はその出身とはうらはらにつつましく、質実剛健の夫によく仕えた、とある。 妾の身分でありながら、正夫人に迎えられ皇后になったのもむべなるかな、である。
彼女はまた、息子の曹丕・曹彰・曹植をそれぞれの特徴を踏まえ、見事に育て上げた。王としての曹丕、将軍の器の曹彰、詩才を持つ曹植と。曹操はこの妻をこよなく愛し、彼女もまた彼に良く答えた。 息子たちも母を慕って、彼女は幸せな一生を送ったと言えるだろう。 帝王にふさわしい賢夫人であった。