-あ行-

于禁(うきん、?~221年)
-無様な最後で名を落とした古の将軍-

字は文則。
黄巾の乱の折、鮑信の募兵に応じて出仕。
その後曹操がエン州を領すると、同志と共にこれに従った。
上司であった王朗の推薦により軍司馬となってからは、徐州攻略や対 張繍戦などに活躍し、曹操から信頼された。
軍律に照らし合わせて厳しく部下を統制し、長年曹操から可愛がられた于禁だが、樊城の曹仁を救出すべく関羽と争って敗北するとこれに降伏。
曹操は、その地で忠節を曲げずに斬られた龐徳と比較して「長年仕えて来た于禁が龐徳の忠節にも及ばぬとは」と嘆いた。



閻柔(えんじゅう、生没年不詳)

若いときに捕らえられ烏丸や鮮卑の地に連れられてきたが異民族たちの尊敬を集めるようになり烏丸校尉の地位を武力で得た。
公孫賛と戦い、これを優位に進めた。 袁紹は彼を厚遇して北方の安定を計った。 曹操が河北を制すると帰順して引き続き烏丸校尉を務め関内侯に取りたてられた。
広く烏丸、鮮卑と中央を結ぶ役割を果たし、軻比能なども彼に頼っていた。 また、曹操に目をかけられ、実の息子のように接したので曹丕とも兄弟のような交わりであったと言う。曹丕の時代には度遼将軍に任命された。
演義には登場しないが、曹丕には重用されている。



王双(おうそう、?~228年)

魏の武将。
228年、諸葛亮は陳倉を包囲したが、陥落することが出来ず撤退した。 王双は騎兵を率いて追撃を行ったが、諸葛亮に迎撃されて斬られた。 後に劉禅は王双を斬った功績を他の功績と合わせて諸葛亮を丞相に復帰させた。・・・とここまでは全て蜀書・後主伝に書かれていること。
魏書では222年、曹仁が呉を攻撃した際に魏の武将として従軍し、捕らえられて建業に送られた、という記述があるが、その後の記述が全くないので、これが同一人物なのかさえ不明。



王朗(おうろう、?~228年)

字は景興。
経書に通じていたため、郎中に任ぜられ、丘の長となった。太尉楊賜が没すると、官を捨てて喪に服した。のち会稽太守となった。
196年、孫策が浙江に渡り経略をはじめると、兵を発してこれをはばんだが、固陵において敗れ孫策に降った。 その後、曹操に召し出され、魏国が建てられると、魏郡太守となり、少府・奉常・大理を歴任した。曹丕が帝位につくと、司空に任ぜられた。明帝のとき、司徒に転じた。
刑政は寛容につとめ、しばしば上疏して歴代の魏主を諫めた。