ヌルハチ

1551年2月21日~1626年9月30日

清王朝の実質的な創始者。
領主氏族の出身であるが、幼い頃に継母にいじめられ、19歳で女真族商人の入り婿となった。 貿易による漢人との接触で漢民族の文化に非常に親しむ。
当時、女真族は明により巧みな分割統治がなされていたが、これを統一し、後金として独立させた。 また、民族名を女真から「満州」と改称し、満州文字を制定するなど民族意識の高揚につとめた。
ヌルハチ率いる満州族は
サルホの戦いによって、明・朝鮮軍に勝利し、 「清王朝」を建国し、最終的には中国全土の征服に成功する。
ヌルハチは中国統一の原動力となった軍制である満州八旗を作った他、民族主義をとり、征服した漢民族には弁髪を強要した。 モンゴル文字による満州文字の創設にも関与した。



ホンタイジ

1592年~1643年

清の第2代太宗。
太祖
ヌルハチの八男
1635年、内蒙古を平定し、蒙古皇帝の正当なあかし「元朝伝国璽」を手中に収め、満州族の「王」から、満州・蒙古・漢三民族に君臨する「皇帝」として、国名を大清に改称。 1938年には蒙古諸部をも服属させた。
ちなみに彼の名「ホンタイジ」は「皇太子」から来ている。



順治帝

1638年~1661年

清朝の第3代皇帝。
姓名は 愛新覚羅 福臨(フリン)、廟号は世祖。
2代皇帝・
ホンタイジの第9男として生まれる。
叔父の
ドルゴンが摂政となって補佐した。
1644年、呉三桂の先導により清軍が入関して北京を落とすと、北京に遷都した。 その後ドルゴンが独裁を確立し、帝はその傀儡となった。 この頃 薙髪令を出して、漢人に弁髪を強要した。
ドルゴンが病没すると、帝は親政を開始し、漢人官僚を重用。吏治を整え、開墾を奨励し『賦役全書』を編纂させた。 そして西南に呉三桂を派遣して、南明の永暦政権を討たせた。
順治帝は当初、キリスト教を信じており、アダム・シャールを尊崇していたが、後にに仏教に傾倒し、高僧の玉林琇・木陳忞らを尊んだ。
1661年、病のため養心殿で崩じた。



康熙帝

1654年~1722年

清朝第4代皇帝。
諱は玄燁。諡は仁皇帝、廟号は聖祖。
先代の
順治帝の第3子として生まれ、8歳で即位する。
翌年には南明最後の永暦帝を昆明で処刑し、1664年には李自成の残党も一掃した。
1669年、後見者のオーバイ(鰲拜)を罷免して親政をはじめた。
1673年に三藩の乱が起こると、これを九年がかりで鎮圧した。海上では鄭氏海軍を破り、台湾を占領。 1689年、北方のロシアとネルチンスク条約を結んで、和平した。 三度にわたって西北に親征して、ジュンガル部のガルダンを逐った。運河交通や黄河の治水に意を用いて治績をあげ、六回にわたって江南への巡幸をおこなった。
文字の獄によって思想統制をおこなう一方、『全唐詩』『佩文韻府』『康熙字典』『大清会典』『古今図書集成』などを編纂させた。 西洋の技術や自然科学にも造詣が深く、フェルビーストらを用いて暦法を制定させた。

皇太子允礽を1708年に廃し、まもなく再び立て、また廃した。 後継者をめぐる諸子の間の争闘は激しくなり、帝は皇太子の選択に悩んで、太子密建を創始した。
1722年、病のため暢春園で崩じた。一説に四男の胤禛(雍正帝)に毒殺されたともいう。


康煕帝の息子と皇后・貴妃


雍正帝

1678年~1735年

清の第5代皇帝。
諱は胤禛(インシン)、廟号は世宗、謚号は憲皇帝。
先代の
康熙帝の第4子として生まれる。
熾烈な後継者争いに勝ち抜き、1722年に45歳で即位した。
軍機処をもうけて、内閣に代わる国政の最高機関とした。土地税と人頭税を一本化して、税収を安定化させた。 対外的には青海・チベットを征服し、露とキャフタ条約を結んで国境線と貿易関係を確定した。
施政は厳格で、近臣や弟であっても処刑・処罰を行ったという。
為政者の義務を果たすために一日4時間しか眠らず、全国の官僚に内密の上奏文を提出させて、地方政治を監督する独特の「奏摺政治」を展開した。

中国の独裁君主の典型とされており、その評価は褒貶二分されている。


雍正帝の息子と皇后・貴妃


乾隆帝

1711年~1799年

清朝の第6代皇帝。諱は弘暦(こうれき)、廟号は高宗。
先代の
雍正帝の4男として生まれる。
十回の遠征に成功したため、十全老人と号したという。
雍正帝が崩ずると、24歳のとき帝位についた。 治世60年間は康煕・雍正帝の治世と合わせて清朝の全盛期を現出、内外に輝かしい治績をあげた。
内政面では康煕帝の寛容と雍正帝の厳正の中道を方針として、両帝の偉業をさらに発展充実させ、特に中国伝統の学術文化の保護奨励につとめ、『四庫全書』そのほか多くの書物の編さん事業を行い、同時に禁書や文字の獄によって清朝の中国支配の強化につとめた。
対外的にはジュンガル・金川・グルカ(各2回)、回部・台湾・ビルマ・ヴェトナム(各1回)へ計10回の遠征を“十全の武功”と誇って版図の拡大をはかった。 また、イエズス会士伝来のヨーロッパ文化を愛好し、イギリス使節マカートニーの貿易改善交渉を拒否して大清帝国の面目を誇示したが、晩年には綱紀がゆるんで白蓮教の乱がおこり、衰退の兆しが表れはじめた。


乾隆帝の息子と皇后・貴妃


嘉慶帝

1760年~1820年

第7代の皇帝。
廟号は仁宗、諱は顒琰(ギョウエン)。
6代の皇帝
乾隆帝の第15子で、
乾隆帝が85歳の時(乾隆六十年)に乾隆帝から譲位を受けるが、乾隆帝が死ぬまでは実質的に乾隆帝が皇帝だった。
嘉慶帝は親政を開始するや、まず乾隆帝の寵臣和珅を誅殺して朝政を引き締めようとしたが、旗人の弱体化・官吏の腐敗はしだいに進行しつつあった。 さらに人口は乾隆期に2倍に増大し、大規模な国内移住・無産人口の堆積はさまざまな社会問題の背景をなしていた。 1795年に湖南・貴州で苗族の反乱、1796年には5省にわたる白蓮教徒の反乱(郷勇によって鎖圧)、1813年には紫禁城を脅かすにいたった天理教徒の反乱、東南海では艇盗(海賊)の乱と反乱が相次いだために軍事費は増大し、しばしば氾濫した黄河の治水費と合わせて財政を圧迫した。
嘉慶帝の治世に清朝支配はようやく翳りをみせるが、文化の側面では“乾嘉の学”といわれるごとく考証学が全盛期を迎えていた時代でもあった。



道光帝

1782年~1850年

清朝の8代目皇帝。
諱ははじめ綿寧、即位後に旻寧(びんねい)と改めた。廟号は宣宗。
7代目皇帝・
嘉慶帝の第2子として生まれる。
このころ、天災や政治腐敗や重税が重なり、農民の叛乱や少数民族の反抗が相次いだ。 1796年から1804年にかけておこった、白蓮教の乱での際に紫禁城内に突入した反乱軍を撃退した。
1838年、林則徐を欽差大臣に任じて広東に赴かせ、アヘンの吸引と販売を厳禁させたが、これに怒ったイギリスとの間に1840年、アヘン戦争がおこるが敗北。 1842、和平派の耆英が欽差大臣となって、南京条約が結ばれ、香港の割譲、五港の開港、賠償金の支払いが約された。
1844、米との間に望厦条約が、仏との間に黄埔条約が結ばれて、治外法権を認めさせられた。 これ以降の清は外に帝国主義の植民地活動を内に軍閥による権力奪取を心配せねばならなくなった。
1850年、病のより死去。また、この年に太平天国の乱が勃発、これ以降の清はますます前途多難となる。



咸豊帝

1831年~1861年

清朝の第9代皇帝。
諱は奕詝。廟号は文宗(ぶんそう)。
8代目皇帝
・道光帝の4男
1851年、太平天国の乱の鎮圧のため兵を派遣したが、たびたび敗北した。
また、1858年にはアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北し、天津条約を結ばされた。この条約により北京への使臣常駐、キリスト教布教の公認、アヘン輸入の公認などを認めさせられる事になった。 これにロシアも乗じて愛琿条約を結ばされた。 しかし、英仏連合軍は満足しなかったため北京に侵攻、咸豊帝は熱河に逃れた。 皇帝のいなくなった北京で英仏は円明園の略奪を行い、財宝の無くなった円明園に放火して証拠を隠滅した。 そして弟の恭親王奕詝に京師の留守を任せて英仏と折衝させ、北京条約を結ばせた。 この翌年、病のため熱河の行宮で崩じた。



同治帝

1856年~1875年

清朝第10代皇帝。
諱は載淳。廟号は穆宗(ぼくそう)。
9代目皇帝・
咸豊帝の長子として生まれる。母は西太后である。
1861年、六歳で帝位につき、蕭順ら八大臣が補佐し、祺祥と改元した。 東太后(慈安太后)西太后(慈禧太后)が
垂簾聴政にあたるという形式を取ったが、実質は西太后が権力を握った。
1864年に14年にわたった太平天国の乱がようやく終結し、洋務運動が起こって諸改革が試みられた。 1873年1月、親政を開始したが、なお西太后の専権下にあった。 翌年、病のため19歳の若さで崩じた。 その死因は、天然痘ともお忍びで遊郭に出向いた際に罹患した梅毒とも言われる。



光緒帝

1871年~1908年

清朝の第11代皇帝。
諱は載湉。廟号は徳宗。
道光帝の第7子・醇親王の第2子として生まれる。母は西太后の妹である。
同治帝が早世した後に権力保持を狙う西太后によって擁立された。即位したのは3歳の時であり、実権は西太后が握っていた。
日清戦争後は革新思想に傾斜。 1898年4月、康有為や梁啓超らと図って戊戌の変法を断行したが、保守派の反撃を受けて、わずか百日で失敗した。
その後、西太后によって瀛台に幽閉された。 翌年に義和団事件が起こり、1900年に義和団が北京に入って外国公使館などを襲撃すると、八カ国連合軍が天津を占領して北京に迫った。 光緒帝は西太后らとともに西安に逃れた。
翌年、北京議定書(辛丑条約)が成立すると北京に帰った。
1908年、死去する。西太后に砒素で毒殺されたともいわれている。



愛新覚羅 溥儀

1906年2月7日~1967年10月17日

清朝11代目皇帝(宣統帝)で、中国最後の皇帝。
光緒帝(10代目皇帝)の弟・
醇親王の長子。
1908年、西太后によってわずか3歳ながらも擁立され帝位に就く。 その後 辛亥革命で帝位を失うも、清室優待条件で大清皇帝の尊号を与えられ、紫禁城に住み、小規模ながら朝廷も存在した。
しかし1924年に馮玉祥率いる国民軍が北京を占領した際に、追放されて天津に移った。
1934年には満州国皇帝の地位に就く(康徳帝)。
敗戦時に戦犯として収容所にいれられ、54歳で出所する。 61歳で病死。