陳友諒

1320~1363年

主君である
倪文俊を殺害し、またその倪文俊の主君だった徐寿輝(元末、白蓮教の頭目として黄州にて挙兵し、長江中流域で勢力を広げた)も殺害。皇帝の位に就き、大漢国を建てる。
張士誠と結んで朱元璋に対抗するが 朱元璋との鄱陽湖の戦いで敗死した。


馬皇后

? ~ 1382年

朱元璋(洪武帝)の皇后
で、賢妻として有名。
実父は殺人の罪で逃亡し、その際に紅巾軍の
郭子興に託されたためにその養女となり、後に彼の部将の朱元璋と結婚した。
慎み深い性格でかつ夫の激務をよく補佐した事もあって朱元璋からは深く愛されており、野心家の彼が郭子興と対立しなかったのは彼女の存在ゆえともいえよう。

明朝建国の際に皇后に立てられた後も質素な生活を続け、激昂しやすい夫をよく統御してその過ちを諫言した。
また、民衆の暮らしぶりを聞いても取り合わなかった皇帝に対して
「陛下は天下の父であり妃の私は天下の母である以上、どうして母が子である民の事を気にしないでいられましょうか」
と言ったように、常に民衆の事も考えていた。
朱元璋にとって儒教的な観念を実践する彼女は理想の女性であり、彼女の死後は皇后を立てる事は無かった。



劉基

1311年~1375年

字は伯温。諡は文成。
出身地の青田(現・浙江省温州文成県)の名前をとって劉青田とも呼ばれる


はじめ科挙に合格し元の官僚として世に出たが、上官と衝突して野に下る。
方国珍が反乱を起こすと呼び戻されたが、剛直ゆえうまくいかず再び下野。  その後朱元璋に、宋濂、章溢、葉琛と一緒に高名な儒者「浙東の四先生」として招かれ、出廬。十八の策を提示し、それから軍師として仕える。
当時朱元璋の勢力は張子誠と陳友諒に挟まれていたが、「陳友諒が滅べば張子誠は孤立するので一気に平定でき、その後に中原へ向かえば王業は成ります」との戦略方針を進言。天下分け目の
鄱陽湖の戦いにおいても朱元璋の傍らにあった。  
朱元璋が帝位につくと劉基は太史令、御史中丞となり、法律の制定や綱紀の粛正を主にした。その後明は北伐を成功させてほぼ全土を統一する。

統一後は暇を乞い、官位を捨てて庶民として隠棲した。 
しかし隠居しても胡惟庸らに讒言されるので、皇帝の目が届く首都・南京応天府で暮らす。時に病を得て、1375年、死去。
これには胡惟庸が毒殺したというの疑いがあり、それが胡惟庸の獄へとつながる。

中国では諸葛亮と並び神秘的な軍師として有名であり、『三国演義』における諸葛亮のモデルになったとも言われる。



李善長

1314年~1390年

1354年に朱元璋率いる紅巾軍が安徽省に攻め入ったとき、朱元璋と会ってその人物に惚れ込んで家臣となった。
漢の
劉邦を手本とした天下平定を進言た事は、その後の朱元璋の行動に大いに影響を与え彼を政治家としても開眼させる契機となっている。 李善長は智謀に優れた人物であり、軍師として朱元璋の王朝成立までの覇業を支えている。
明王朝成立後は筆頭功臣として、明王朝の財政・行政の整備に全力を尽くし、その功績により左丞相にまで出世したが、自ら推挙した
胡惟庸が1380年に謀反のかどで刑死すると彼との縁戚関係が災いして連座・失脚し、その10年後に事件を蒸し返されて自殺させれた。


胡惟庸

?~1380年

李善長とは同郷で1355に彼の推挙で朱元璋に仕える。
明朝成立の後は中書省で出世を重ね、1377年には左丞相となる。朱元璋の信任を背景に中書省の政務を壟断、自身に不利な事を隠匿する一方で、功臣の
徐達劉基の排除を図って後者を毒殺したといわれる。
この専横が朱元璋の憎むところとなり、1380年に元・日本と呼応して謀反を企てた事が密告により発覚したとし、自派の重臣共々処刑された。これに連座して処刑された者は3万人にも及んだという。(
胡惟庸の獄
しかし彼が謀反を計画していた証拠は乏しく、今回の事件は密告を利用した朱元璋の計画的粛清とも考えられている。



徐達

1332年~1385年

字は天徳
朱元璋の旗揚げ時から協力し、元を追って新王朝を立てるのに大きな功を挙げた。
明朝の創始にあたり功臣の第一位と評され、最終的に魏国公・右丞相となった。
軍人としての彼は、沈着冷静で軍紀の厳粛を堅持し、殺戮を好まず降伏した者を厚遇した事から人気が高く、明建国後も権勢に奢る功臣が多い中で身を慎み自重を怠らなかった。



永楽帝

1360~1424年

姓名は朱棣
明朝の
第三代皇帝。洪武帝(朱元璋)の第四子。母は馬皇后。皇后は徐達の長女。
燕王として北京に駐在し、北元からの防衛の任にあたっていた。しかし
献文帝(二代皇帝。洪武帝の孫)と権力闘争をはじめ内乱となる。北京の燕王と南京の皇帝の戦争は燕王の勝利に終わり、焼失する南京の宮殿とともに献文帝は滅ぼされ、燕王はその帝位を奪い即位。 献文帝に仕えていた忠臣たちを皆殺しにした。
洪武帝・献文帝の「南京政府」を滅ぼした永楽帝は、自分の根拠地である 北京に遷都し「北京政府」をはじめる。

永楽帝は、宦官の
鄭和王景弘らに命じて、1405年(永楽3)以来、次の宣宗時代の1433年(宣徳8)にかけて計8回の南海遠征を行わせ、30余国を招撫した。その一隊は遠くアフリカ東岸にまでいたった。
日本に対しては、
足利義満とのあいだに国交を回復して勘合符による朝貢貿易を促し、1419年(永楽17)には望海堝で倭寇を大敗させた。
成祖は太祖の遺業を継いだといわれるが、とくに版図と通商圏の拡大などの外政に威を振い、太祖の内政貢献と相まって明朝の基礎を確立したといってよい。ただし、宦官に政治関与の道を開いたことは、漢・唐と並んで明は宦官に滅んだといわれる原因をつくった。