袁世凱

1860年〜1916年

中国の清末から民国初期の軍人・政治家。 大清帝国第二代内閣総理大臣、中華民国臨時大総統・及び大総統。
李鴻章の死後,清朝の大臣として陸軍の近代化を進める役割を担いつつ台頭し、彼自身が作り上げた軍事力を背景に政治的にも大きな権力を振るった。
その後一時失脚するが、
辛亥革命の混乱の中で清政府と孫文らの革命派との間で巧みに遊泳し、中華民国の大総統となり、革命派を弾圧するとともに、インフラ整備や軍備の充実などの面から国家の近代化に当たった。
さらに皇帝に一時即位したが、内外の反発を買って退位、失意のうちに没した。



魯迅

1881〜1936(光緒7〜民国25)

本名は周樹人。字は予才。
中国、近代の文学者。浙江省紹興県の人。
筆名は魯迅を初め数十にのぼる。
読書人の家庭に生まれたが家の没落で困苦の少年時代を送る。
1902年(光緒28)官費留学生として日本に留学、仙台医学専門学校で学んだが、中国人の精神改造を急務と考え文学に転向した。1909年(宣統1)帰国。辛亥革命後南京臨時政府や北京政府の教育部職員となり北京大学で教鞭をとる。
1918年(民国7)「新青年」に『狂人日記』を寄稿し、社会悪の根源を探り新文化運動の礎となった。さらに1921年(民国10)の『阿Q正伝』を初め数多くの小説・詩・評論などを発表した。
1926年(民国15)北京を脱出して南下、厦門大学を経て広州に移り許広平と結婚。
1927年(民国16)より上海の租界に定住して執筆活動を続け、中国左翼作家連盟・中国民権保障同盟など進歩的組織の中心メンバーとして、国民党の反動的な文化政策と闘い抗日救国に努めた。
1936年(民国25)民族統一戦線の結成をめぐる論戦中に病死。中国古典文学の研究・翻訳・木版画などの業績もある。



宗家の三姉妹

宋慶齢(1893年〜1981年)
宋家三姉妹の次女。 夫は「中国革命の父」である
孫文
孫文とは父が支援者であったことから知り合い、結婚前には孫文の英文秘書を務めていた。
孫文の没後もその遺志を継いで革命活動に従事。 国民党左派で容共的立場をとり、1927年の上海クーデターに反対し、蒋介石や宋一族と対立することとなる。 国民党左派の武漢政府崩壊後、一時はソ連に身を寄せたものの、スターリンによる反対派の粛清と中国革命に対する冷淡な態度に幻滅し、中山陵(南京郊外の紫金山にある孫文の墓所)完成の式典に際して中国に帰国。 やがて、抗日戦が始まると彼女は香港に行き、1938年に保衛中国同盟を設立。
第二次国共合作が実現した後、宋家の三姉妹は抗日統一戦線のシンボルとして戦地の慰問等の活動を行うが、これは政治的パフォーマンスであったという。 1926年には中国国民党執行委員に就任。
中華人民共和国成立後は中央人民政府副主席などを歴任。 婦人運動や子女の保護、教育の分野に尽力した。
慶齢は中国革命の指導者である孫文夫人であり、国母として統一戦線の象徴的存在であった。


宋美齢(1897年?〜2003年)
宋三姉妹の末っ子。 夫は「中華民国の指導者」である
蒋介石
9歳のときにアメリカに留学し、その後マサチューセッツ州にある名門女子大・ウェルズリー大学に入学し、1917年に首席で卒業した。 中国に帰国した後の1927年に、中国国民党総統で中華民国の指導者であった蒋介石と結婚し、西安事件に際して蒋介石に抗日を訴えるなど、生涯を通じて蒋介石の政治的な決定に影響を与え続けた他、国民党中央委員会のメンバーとして国民党内にも多大な影響力を持っていた。 また、第二次世界大戦中の1942年11月から1943年5月までアメリカに滞在しアメリカ全土を回り、自ら英語で演説し抗日戦への援助を訴え続けた。
1949年に蒋介石が国共内戦に敗れ台湾島へ移動すると、蒋介石に同行する。 その後、1975年に夫が死去するとアメリカに移住し、ニューヨークのマンハッタンに住まいを構えた。
その後は中華民国に殆ど帰国することはなくなり、2003年10月23日に105歳(106歳との説もある)で死亡した。



張作霖

1875年〜1928年

中国の軍閥政治家。
満州の馬賊の出身で、日露戦争当時にロシア軍と通じているとされて日本軍に捕らえられたが、当時の満州軍総司令部の作戦参謀であった
田中義一に命を救われ、日本軍に協力するようになった。
辛亥革命後、軍閥として中華民国の勢力の及ばない奉天省、黒龍江省・吉林省にて権勢を得る。
1926年一時北京を攻略するが、1928年に蒋介石の国民軍に破れ奉天に戻るが、既に満州国樹立を画策していた関東軍には邪魔な存在となっており、関東軍参謀河本大作大佐の策略で、張は乗っていた列車を爆破され死亡した。(
張作霖爆殺事件) この事件は日本軍の策略であるとして国際的に非難され、河本大作大佐は軍を予備役とされた他、田中義一は総理大臣を辞職に追い込まれた。


張学良

1901年〜2001年

日本軍によって爆殺された中国東北地方の軍閥の首領・
張作霖の息子。
満州事変の勃発により、麾下の東北軍とともに、日本軍によって満州を追われる。
1936年12月、抗日より先に共産党を打つべきだと主張する最高指導者 ・
蒋介石を西安にて監禁、説得する。(西安事件
これにより、共産党との共闘を含む、統一抗日戦線が実現され、日中戦争は中国軍にとって有利な展開となるが、張学良自身は事変後、蒋介石の手で軟禁生活を余儀なくされる。
1993年、54年間の長きに及ぶ軟禁を解かれ、妻とともにハワイに移住。
2001年10月15日、入院先のハワイの病院で死去。

※中華人民共和国では、張学良に対し、中国の統一を実現し発展を押し進めた「千古の功臣」、「民族の英雄」という高い評価が定着している。
台湾でも、蒋介石、蒋経国(蒋介石の息子)総統の死後、張学良90歳の誕生パーティが公に開かれ、事実上の名誉回復がなされている