王昭君

✿生没年 ?~1世紀ごろ
✿姓・諱 姓を王、諱を嬙とも。字は昭君
✿出身地
✿関連人物 元帝


西施貂蝉楊貴妃と並んで古代中国の四代美女の一人とされている。
前漢の
元帝(10代目皇帝)の時代、生来の美貌から若くして後宮入りを果たすが、一度も皇帝にまみえることはなかった。 元帝に、政略結婚の道具として匈奴に嫁がされ、その生涯を閉じる。



    紀元前1世紀の後半、漢の元帝の時代。 この頃、かつてモンゴリアに猛威をふるっていた匈奴も、内乱によって従来の面影を失っていた。 漢の助力を得て、ようやく統一を達成したのが ”呼韓邪単于” である。
喜んだ呼韓邪は、漢への忠誠を誓い、公主を賜って漢の姻戚になりたい、と申し入れた。 このとき選ばれて呼韓邪に与えられたのが、王昭君であった。
漢の宮廷には、数多の女官がいるが、皇帝はこれらの全ての女官をいちいち見ることはできない。
そこで元帝は、画工に命じて女官たちの姿を描かせ美しい者を召し出すことにしていた。 女官たちは、できるだけ美しく描いてもらおうと、賄賂を画工に贈った。
しかし、王昭君は、自分の美貌に自信があったから、付け届けをしない。皇帝のもとに届けられた王昭君の絵姿は、美女というに遠かった。
元帝は描かれた姿によって、王昭君を選んだ。 こうして決定してから、いざ召し出して見ると、素晴らしい美女である。 元帝は、今更ながら王昭君を手離すのが惜しくなった。しかし、既に裁決してしまった後である。
呼韓邪単于は喜んだ。 王昭君は泣く泣く匈奴の地へ伴われた。気候も風習も違った異国において、悲しく寂しい生涯を終えた、という。

王昭君の悲劇は後に物語にも仕立てられ、多くの人々の涙を誘った。 王昭君の物語は日本へも伝えられ、王朝時代このかた、詩文の題材とされた。
王昭君は、我が国の平安貴族たちにとっても、まさしく最大の悲劇の主人公であった。 これらほ物語の世界である。  

実際の王昭君は、名家の娘で名は嬙(しょう)といい、17歳の時、選ばれて宮中に入った。 しかし、数年たっても、皇帝からのお召がない。 気位の高い王昭君は、これを悲しみ恨んでいた。
やがて単于に、美女を贈るという。それも一人ではない。5人の美女を選ぶという。 王昭君は自ら志願して、5人の中に入れてもらった。
さて、5人の女官が、元帝の前に別れの謁見に出た時、元帝は目を見張った。 その美しさに宮廷の誰もが息をのんだ、という。 元帝は王昭君を宮中にとどめようと考えたが、信を失うことを恐れて思いとどまった。
匈奴の住まいはいわゆるパオ(包)である。 しかし、匈奴は王昭君を迎えるため漢式の宮殿を建てた、と伝えられている。 王昭君は呼韓邪の愛を受けた。初めて受ける君主の愛であった。そして一人の王子を産んだ。 もちろん、匈奴の国における毎日の暮らしは、王昭君にとって厳しいものであったに違いない。 食べ物、飲み物、そして着るもの全てが漢土と異なっている。 さらに草原の中の酷烈な気候は、類まれな容姿を傷つけたかもしれない。 
しかし王昭君は、それ故に故郷へ帰りたいと嘆いたであろうか? いかに異郷での衣食住がその意に沿わなくとも、自ら選んだ道であった。 漢の宮廷において重んぜられなかった身も、今や匈奴の王庭において ”閼氏(あっし)”(=匈奴の言葉で妃のこと) と呼ばれる身分になった。 こうして単于の愛を受け、自尊心を満足させた生活も、しかしながら2年しか続かなかった。 匈奴に赴いて2年後に呼韓邪は死去したのである。

王昭君の悲劇は、これから始まったといってよい。
匈奴のみならず北方遊牧民の風習では、父親が死ぬと、後継ぎの子は父の妻妾を、産みの母を除いてことごとく自分の妻妾とする。 兄弟が死んだ場合も同様である。 呼韓邪が死去してその長男が単于となった。王昭君が産んだ子ではなかったため、当然ながら彼女はその息子の妃となった。 これは王昭君にとって堪え難い屈辱であった。
王昭君は、漢の朝廷に書を送り帰国を許してもらいたいと請うたが、いったん匈奴の妃となった者に帰国が許されるわけはなかった。 王昭君は、夫の長子である単于のもとで二女を産んだ。しかも、二度目の夫も在位9年にして死去した。

呼韓邪の子どもたちは、次々に単于となったが、王昭君の産んだ子だけは単于になれなかった。殺されたとも言われている。 その後の王昭君については、何の伝えることもない。 おそらく、あらゆる希望を失って淋しく匈奴の地で死んだことであろう。