交州

交州は、古来より南越の地であった。都から遠く離れた中国の南海に面し、中央の政治が行き渡り難く、南越の諸民族による氾濫が頻発していた。
後漢末期、交州刺史の張津が武将の区景に殺されると、荊州牧の劉表は自分勝手に配下の頼恭を派遣して交州刺史にあたらせようとした。これを知った後漢朝廷は、交趾太守の士燮に交州七郡の監督を兼任させた。
その後20年弱の間、士燮の勢力が交州を支配した。