楊堅

541年〜604年

諡は文帝、廟号は高祖。
隋の初代皇帝
北周の随国公・楊忠の子で父の地位を継承して軍事・政治の大権を握った。娘は周の宣帝の皇后。
580年、宣帝が死去し、8歳の静帝が帝位にたつと左大宰相としてこれを補佐し、人心を掌握した。
581年、周に代わって自立し、587年に後梁、589年に陳を滅ぼし晋以来200年以上に亘り、乱れ続けてきた中国全土を統一することに成功した。

在位の間、
三省・六部を設け、郡を廃し州・県を設置。 九品以上の地方官はすべて中央が任命し、試験により官を選び登用(選挙の制、のちの科挙)するなど中央集権制を強化・官制の改革を行った。
また、貨幣・度量衡の統一や、均田制を行い租税を軽減、人口を調査し、戸籍を再編するなど富国に尽力した。

604年、楊堅は64歳で病死したとされているが、子の楊広(煬帝)により殺害されたとの説もある。



煬広(ようだい)

569年〜618年3月11日

謚は明帝。 なお、煬帝とは唐王朝による追謚である。
隋朝の第2代皇帝。中国史を代表する暴君とされる。
文帝(楊堅)の次男で、父の即位とともに晋王となる。 南朝陳を討滅する軍の行軍元帥となり、隋の中国統一を達成した。 文帝と独孤皇后に取り入って、兄の揚勇を廃嫡させることに成功して、皇太子となった。
文帝が没すると、揚勇を殺して即位。 東京洛陽城の造営や大運河の建設などの大工事をおこなって国力を疲弊させた。
北は突厥、西は吐谷渾を服属させ、南方の諸国に朝貢させた。 東方は日本・新羅なども国書を送ってきたが、高句麗が服属しなかったので、高句麗に三回にわたって遠征軍を送りながら失敗し、その間に民衆叛乱が続発した。
晩年、各地の叛乱をよそに、風光明媚な江都の離宮に移って奢侈と酒色にふけった。
唐公・
李淵が挙兵して長安に入り、楊侑(恭帝)を立てたが、北帰の意志をみせず、軍士の不満がつのり、宇文化及らに殺害された。