李淵

566年〜635年

唐の初代皇帝高祖煬帝の従兄にあたる人物。
北周の世に生まれ、隋の文帝に仕える。そして、煬帝に太原留守を命ぜられる。

煬帝の失政に乗じて挙兵、異民族の突厥の助けをかりて長安を陥し、煬帝の孫・恭帝を擁立。 煬帝の死後に即位、長安を都として唐を建国する。
次男・
李世民の働きにより群雄を討伐し、天下を手中におさめる。
李淵は長男の
李建成を皇太子として立てていたが、李世民が建成と四男・元吉の兄弟を殺害する「玄武門の変」が起こり、李淵自身も幽閉されてしまったため、李世民に譲位して太上皇となった。


李世民(太宗)

599年〜649年

廟号は太宗
唐の二代皇帝。高祖・李淵の次子。 父を助けて唐王朝創設の中心的役割を果たす。
長子の
(李)建成と(李)世民が唐王朝創設を実質的に主導したが、長男の建成は太子であるため、常に高祖の側に仕え、群雄平定の役割は世民が主として担った。

李世民は武略ともにすぐれ、傑出した武将であった。そのため武勲も多く、人望も厚かった。
李世民の存在は、父・李淵の後継者決定を複雑なものにし、太子の建成にとっても脅威となり、両者の間には次第に軋轢が生じた。
626年6月、長安の玄武門で世民は配下の、孫無忌・尉遅敬徳(うつきけいとく)・房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(どじょかい)らを引き連れ、兄・建成と弟・
(李)元吉を殺害した。いわゆる「玄武門の変」である。
高祖・李淵もこれを認めざるを得ず、同年8月に世民に位を譲る。

627年、元号を貞元とし、府兵制・均田制・租庸調制、そして三省六部に代表される中央官制などの唐の諸制度の多くが彼の時代に完成したとされる。 その政治手腕は非凡なものであった。
さらに宰相として房玄齢・杜如晦、諫臣として建成の教育係であった魏徴を登用するなど,優れた人材の補佐があり、その意見をよく取り入れた。
後世の人々はその政治を「
貞元の治」と称え,彼自身の理想的君主像は定着していった。


李治(高宗)

628〜683年

名は
唐の三代皇帝太宗の第9子。母は文徳皇后長孫氏。
初め晋王に封ぜられ、6歳で并州都督を・領し、ついで右武候大将軍となった。643年(貞観17)太宗の長子・李承乾が皇太子を廃され、また第4子・李泰も罪をもっておとされるに及び、李治(高宗)が皇太子となった。
これには伯父・長孫無忌の強力な働きかけがあずかっている。
太宗の後をうけて即位した高宗は、王皇后を廃して
武即天を皇后に立てた。
これに反対した長孫無忌ら太宗時代の名臣は失脚するにいたり、唐の政治は乱れ始めた。

武即天は、高宗が病気がちであるのに乗じて朝政に関与し、高宗がこれを廃そうとして失敗に終わってからは、政治の実権はすべて武即天がにぎり、高宗は名ばかりの天子となった。



武即天

623年〜705年

日本では則天武后として有名だが、本来は武則天という。
中国史上唯一の女帝。 中国で女帝と呼ばれる人は数多いが、本当に即位してしまったのは武則天のみである。 漢代の
呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」と称されている。

14歳の時、唐の
太宗(李世民)の後宮に入ったが、その死後慣例に従って尼となる。 しかし、次の高宗の寵愛を得、また後宮の権力争いの都合で後宮に返り咲く。
その後、謀略で他の皇后や寵妃を陥れて皇后の地位を得、さらに息子を含む政敵を殺戮して実権を握り、遂には息子を廃して自ら皇帝となり、国号を『』と改める。
その施策は貴族に押し込められていた新興勢力の支持を得たが、やはり政権を握るまでの強引な方法に無理があった。

705年、宰相の張柬之らが彼女に退位を迫り、
中宗が復位して唐が復活した。 同年、武則天は上陽宮で没した。
尚、武則天は則天文字と呼ばれる17のオリジナル漢字を作っている。内1文字が日本でも使われた。水戸光圀の「圀」がそうである。



玄宗

685年〜762年

唐の第6代目の皇帝
李隆基という。
則天武后を受け継いで権力を握ろうとする
韋后を倒し、クーデターにより即位した。
即位後はよく政治をととのえ,年号にちなんで「
開元の治」といわれた。
彼の時代に唐の国力は最大となり、文化的にも李白杜甫ら有名な詩人も現れ(これは玄宗とは関係ないとも思うが)、絶頂に達した。

しかし、社会・経済構造の変化から徴兵制に代わり募兵制を採用、また地方防衛のため節度使をおいた。 このことが、後に唐の衰退の原因の一つとなってしまう。
玄宗自身は、性格、容貌とも優れ、文化を愛好する風流人であった。
晩年は政治に飽き、
楊貴妃への愛にあけくれたため、755年安史の乱がおこり、翌年、子の粛宗に譲位した。 都・長安は奪回され戻ることはできたが、寂しい晩年を過ごし、間もなく死去する。
以後、唐は宦官と節度使によって衰退を続けることになる。



楊貴妃

710年〜756年

唐代の皇妃。
玄宗の寵姫。
あまりにも玄宗が寵愛しすぎたために
安史の乱を引き起こしたので傾国の美女と呼ばれる。 古代中国四大美女(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされる。

楊貴妃は元々玄宗の息子の妃の一人であったが、玄宗に見初められたために、一時的に女冠(女道士)となり、その後で、玄宗の後宮に入った。 これは息子から妻を奪う形になるの避けるためである。
玄宗は楊貴妃との愛欲の生活に溺れたため、まったく政治を顧みなくなり、彼女を喜ばすために楊一族の位を高くした。 その結果、楊貴妃の従兄の
楊国忠の専横を許すこととなった。
楊国忠は自らの名声を高めるため、遠征を行うなどの悪政を行ったために国力を弱め、民衆からの恨みを買うこととなった。
さらに楊国忠は権力争いのライバルである節度使の
安禄山を蹴落とすために玄宗に讒言を行った。
結果的に、これに危機感を覚えた安禄山は反乱を起こした。(
安史の乱

玄宗は楊貴妃を引き連れて長安から逃れるが、逃避行の途中で彼らを護衛する親衛隊が
「安禄山の反乱は楊貴妃のせいだ」
と言い、反乱の原因である楊貴妃の殺害を玄宗に迫った。
玄宗はやむなく楊貴妃を縊死(首吊り)させた。