司馬師

208年~255年

字は子元
司馬懿の嫡子で、若くして有名であった。 父の朝廷への影響力により初めから高い官職の散騎常侍から始まり、その後も華やかなエリートコースを歩んでいく。
249年魏朝廷を専横していた
曹爽派へのクーデターを父・司馬懿と共に決起する。成功後はその功績により長平郷候に昇進する。

父・司馬懿が没すると父の旧職を引継ぎ撫軍大将軍となり、さらに252年には大将軍となり魏の全権を一手に握り、司馬氏の影響力は甚大になった。
それを快く思わない人物も多く、そういった反司馬氏勢力は司馬師を廃しようと画策しクーデターがおきてしまう。
その計画に皇帝の
曹芳も関与していた事を知った司馬師は、独断で皇帝を廃位し、後継に曹丕の孫・曹髦を即位させる。 その独裁的なやり方は多くの反発を招き、翌年、司馬師打倒を誓い毋丘倹と文欽は挙兵する。 この報を知った司馬師は、眼下の瘤をとった手術の傷が直らないまま出陣してしまい、戦闘中に眼球が飛び出してしまい、その後その傷が悪化して没してしまった。


司馬昭

211年~265年

字は子上
司馬懿の次男。 兄・司馬師の跡を継ぎ晋王となる。
司馬懿の死後、兄の司馬師とともに権勢をふるった。 そして、司馬昭の子には、三国時代を統一した晋の武帝・
司馬炎がいる。
兄・司馬師が死ぬと大将軍の位をつぎ、蜀を平定し、晋王となった。 しかし、呉を平定することができずに、皇帝になれるという直前で息絶えてしまった。
そしてその子、司馬炎が統一することになったのだが、その基盤を作ったのは、彼だといっていいだろう。



司馬炎

236年~290年4月

字は安世
天下統一し、
西晋の初代皇帝となる。
魏の有力者であった
司馬昭と王元姫(王粛の娘)との間に長子として生まれた。 中撫軍などを歴任し、264年に、父・司馬昭が晋王となると、その後継者に指名された。
同年8月に司馬昭が没すると、司馬炎は晋王・相国の位を継いだ。 同年12月には、魏の
元帝(曹奐)に禅譲を迫り、皇帝の位を奪い、新王朝を『晋』と名付けた。
そして、280年には呉を滅ぼし、黄巾の乱以降分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。



杜預(どよ)

222年~284年

字は元凱
天下統一をもたらした晋の大都督 。
父親も魏に使えていたが、司馬懿と反りが合わなかったため、子のも長い間重用されなかった。 その後、司馬昭の妹と結婚し、それからは出世コースを歩み始める。
それからは、鍾会の蜀討伐に副官として従軍するが、討伐中に鍾会が蜀軍の姜維と手を結び反乱をおこしてしまう。
多くの魏の将はその巻き添えで死亡するが、杜預は難を逃れて帰国。 280年、
羊祜の後を継いで大都督になり、呉を討伐し中国統一を実現する。


羊祜(ようこ)

221年~278年

字は叔子
「堕涙の碑」を生んだ仁徳の名都督。
武帝(司馬炎)は呉討伐の志を立て、羊祜を都督荊州諸軍事とし、部隊を率いて南夏(中国南部)に進駐させた。 学問所を開設して遠近を手懐け、はなはだ江漢(長江・漢水)流域の民心を手に入れた。
呉の人々に対しては大いなる信義を示した。
卒去したとき、南方の州の人々は市場に出かけた日に羊祜の死を知り、号泣しない者がなかった。 市場を閉めたあとも、至るところで泣き声が挙がった。 国境を守る呉の将兵たちもまた彼のために泣いた。その仁徳の広がりはこれほどであった。



裴秀(はいしゅう)

224年~ 271年

魏、晋の官僚であり、地理家。
魏の
曹爽に仕えたが、曹爽の死後、敵対勢力であった司馬昭に仕えて武帝擁立に貢献した。
禹貢地域図」18編をつくり、その序文に地図作成の基本ルールを記した。
彼が作った地図は現存していないが、そのルールは中国にヨーロッパ地図が入ってくるまで、中国の地図作りの基本準則となった。



辛憲英

190年~269年

魏の参軍・
辛敞の姉。
司馬懿のクーデターの際に弟から相談されて、司馬懿のねらいは大将軍・曹爽にあることを見抜いて弟を励まし、辛敞に洛陽から脱出して曹爽のもとへ走るよう勧めて大義を全うさせた。 そのおかげで辛敞は曹爽が誅されたあとも「義人である」として許されて、旧職に復することができた。

情勢を非常に的確に読んで、そこから近い将来を予見することが出来た賢人。