韓信

?~前196年

漢の高祖・劉邦の天下統一に貢献した名将。
蕭何張良とともに漢の三傑といわれる

はじめ項羽に従い、しばしば献策したが容れられず劉邦に帰順した。 蕭何にその才能を見出されて大将軍に推挙される。
漢が
彭城の戦いで大敗を喫した後、各地の諸侯が漢を見限って楚についたため、劉邦は窮地に陥った。 その危機を救い、再起への道を開いたのが韓信であった。 彼は別働隊を率いて魏・趙・斉を討伐し。、項羽の背後を脅かした。さらに斉救援のために項羽が派遣した竜且(リュウショ)の軍20万を迎え撃ち、これを壊滅させた。
これによって楚の兵力は激減し、楚・漢の力関係は逆転した。  

天下平定後はその実力を危険視され,捕らえられて殺される。



張良

?~前189年

字は子房。諡は文成。
軍師として劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。 蕭何・韓信と共に劉邦配下の三傑とされる。
また、周の
呂尚(太公望)、蜀(三国時代)の諸葛亮と並んで中国三大軍師と呼ばれる。

元々は代々韓の宰相を務める家柄で名門であったが、亡国の徒となり、力士を使って東遊中の始皇帝を襲撃するが失敗。姓名を変えて追求の手を逃れた。
後に
陳勝・呉広の乱が起こるや従者と共にこれに呼応、劉邦との面識を果たし、鴻門の会で項羽から劉邦を守るなど活躍。 その帷幕に入るや、鬼才を発揮して劉邦の覇業を大いに助けた。
張良は、地形的・戦略的に長安を都にするよう提案し、その後も建国間もない漢帝国の基礎をつくった。
張良は病弱で一度も戦場に立ったことがなかったが、劉邦は論功行賞の際、
「帷幄のなかに謀をめぐらし、千里の外に勝利を決した」
とし、その功績を高く評価した。

司馬遷の『史記』によると、「彼の実績からいかつい容貌の男を想像していたが,肖像画を見たところ美女のようであった」と述べられている。



蕭何

?~前193年

秦末から前漢初期にかけての政治家。漢の高祖・劉邦の覇業を助けた功臣。
元々秦の有能な官吏であったが、劉邦の挙兵に加わり以後その事務をとりしきった。 劉邦が秦の都・咸陽に一番乗りをしたとき、蕭何は財宝には目もくれず、秦の文書や法令を手に入れた。 これが後の漢の天下経営に大きく役立つことになる。
また韓信を登用するよう進言したのも蕭何であった。 漢・楚の対決の時代、蕭何は後方にとどまって体制を整備し、前線への物資の補給を計画的に行った。 劉邦はしばしば敗走して兵力を失ったが、蕭何はその都度関中から兵力を補充した。
項羽を滅ぼした後、劉邦は最高の功績をあげたのは蕭何あるとした。
劉邦が皇帝となり、前漢が成立すると、蕭何は引き続き丞相として政務を担当することとなり、長年打ち続いた戦乱で荒れ果てた国土の復興に従事することとなった。
しかし、しだいに劉邦から疑惑の目を向け始められ、韓信を始めとする元勲達が相次いで反乱を起こしたこともあり、蕭何に対し危険視するようになった。
蕭何は部下の助言を容れて、わざと悪政を行って自らの評判を落としたり、財産を国庫に寄付することで、一時期投獄されることはあったものの、何とか粛清を逃れることに成功した。 そして劉邦の死の2年後、蕭何も後を追うように亡くなった。



呂后

前239~前180年

名は、字は娥姁(がく)。
夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后呂太后とも呼ばれる。
。唐代の
武則天(則天武后)、清代の西太后と共に「中国三大悪女」として名前が挙げられる。

漢の高祖
劉邦の正室として、劉邦の生前は夫につくす賢妻らしさも見えたが、高祖の死後、呂氏一族で中央を固め、高祖時代の功臣(韓信や彭越など)を次々と殺していった。
高祖の寵愛をうけた
戚夫人をなぶり殺しにした「人てい事件(ひとぶた)」は彼女の悪女ぶりを物語る有名なエピソード。

前188年、息子で2代目皇帝の
恵帝が死ぬと、呂台・呂産・呂禄ら呂氏一族に首都の兵権を掌握させ、幼い劉恭を即位させて自ら臨朝称制(皇帝権代行)し、高祖の盟約を破って異姓たる呂氏一族を王に封じた。
前184年劉恭を廃して幽殺し、幼い劉弘を立てて称制をつづけた。
前181年高祖と他妃との子、趙王友・梁王恢・燕王建の子を次々に死なせ、呂産・呂禄・呂通をそのあとの王として劉氏に代わらせた。
翌年呂后が死ぬと、劉氏と高祖の功臣らは呂禄を欺いて兵権を奪い、呂氏変乱の計画を制してこれを族誅した。



司馬遷

前145年~前86年

前漢・武帝期の歴史家で、中国最初の総合的な歴史書である『史記』の編者として知られる。

司馬遷は夏陽に生まれ、幼い頃は農耕や牧畜の手伝いをして育った。
20才のとき、中国の南方、東方を巡る大旅行を行い、見聞を広めた。この旅行ののち、郎仲に任官され武帝の命を受け巴蜀・昆明の地を旅する。
父の司馬談は『春秋』以降の史書の編纂を私的に進めていたが、武帝が行った泰山封禅に参加できなかったことから絶望して死の床につき、司馬遷に未完の史書の完成を遺言して亡くなった。

前108年,司馬遷は太史令となり,暦法の改訂に携わる傍ら,宮中の蔵書を閲覧し史書の準備を始めた。
前104年、太初暦が施行されたことを契機に『史記』(司馬遷は『太史公書』と呼んだ)の執筆を開始した。
前99年、漢将李陵が奮戦むなしく匈奴に投降するという事件が起き、朝廷はいっせいに李陵を避難したが、司馬遷だけは毅然と李陵を弁護した。これが武帝の逆鱗に触れ宮刑に処せられることになった。
そして、「五十二万六千五百字」の大著述である『史記』が完成したのは前91年ころだと推測される。その後の司馬遷については知られることも少なく、卒年なども詳しいことは分かっていない。



衛青

?~紀元前106年

前漢の武帝に仕えた武将で、武帝の妃・衛子夫の弟。
幼少時に、匈奴と境を接する北方で放牧の仕事をしていたため、匈奴の生活や文化に詳しくなる。 姉の衛子夫が武帝の寵姫となったことにより引き立てられる。
衛子夫を憎む陳皇后一族により拉致・監禁されたことがあるが、友人の公孫敖(こうそんごう)の活躍で救出される。
匈奴征伐に際して車騎将軍に任命され、計7回にわたる討伐遠征を行い、匈奴軍に大きな打撃を与えた。
この結果、匈奴の力は弱まり、秦の時代から匈奴に奪われていた土地を取り返すことができ、打ち続く遠征の成功によって、漢の領土は大きく広がった。 衛青はこの功によって大将軍に昇進するが、その後は彼の甥にあたる
霍去病が華々しく活躍し、常に衛青を上回る軍功を上げたため、武帝の信任は次第に移っていった。
やがて大司馬の官位が設けられ、大将軍・衛青とその下位にあった驃騎将軍霍去病は、ともに大司馬に任命されて同列となり俸禄まで等しくされた。
このときを境に衛青の権威は日に日に衰退し,以後完全に霍去病に取って代わられることになる。



霍去病(かくきょへい)

前140年~前117年

衛青
の甥。匈奴討伐の名将と言われている。
北西辺の匈奴の勢力駆逐のため、霍去病は衛青と共に前後6回討伐を指揮し、内外にその武名を謳われた。 霍去病は、常に選りすぐった精鋭ばかりを与えられていたため、彼の部隊は抜きんでた軍功をあげていた。
このため武帝の信任は日増しに厚くなり、ついには大将軍・衛青をもしのぐ勢いになった。
霍去病は、若いときから武帝の側近として高位についたため、部下をいたわることを知らなかったという。 出陣の折には、武帝から直々に車数十台にのぼる珍味を下賜されるのが常であった。
それらは帰還の時まで有り余るほどの量だったが、一方で士卒は飢えに苦しんでいた。
彼の人扱いは万事にこの調子であったが、それでも声望は衛青をはるかにしのいでいた。



烏孫公主

本名は劉細君。武帝の甥にあたる江都王・劉建の娘。
紀元前2世紀末の
武帝の時代、漢と匈奴が激しく衝突しはじめると、漢朝は匈奴と対抗するため 西域の伊犂地方に住んでいたトルコ系の民族の国家 ”烏孫” との同盟を必要とした。
ちょうどそのころ烏孫はたびたび漢の公主の輿入れを求めていた。 中国では、周辺の強力な国を懐柔する方策の一つとして、黄金や絹のほかに王に美しい公主を嫁がせた。
前105年、漢の皇族の娘の中から細君が選ばれて、烏孫王・昆莫のもとに嫁ぐこととなった。 しかしこの昆莫はすでに老人であった。生活も全く異なるし、言葉も通じなかった。
皇帝の命令のままに烏孫に赴いた細君は、はるばる到着すると自分の住居を別に建て、季節ごとに1、2回昆莫を招いては酒宴を催す。それだけの夫婦であった。

数年の月日がたち、昆莫は自らの死期を悟ると、細君を自分の孫の岑陬に嫁がせようとした。 細君はこれを拒み、帰国を望んだ。 武帝に窮状を訴えたが、武帝は烏孫の俗に従うよう返書した。 細君はついにこの岑陬の妻となった。
やがて岑陬との間に一女(少夫)を設けたが、それが細君にとってわずかな慰めとなったであろうか。
その後、細君は烏孫の地で没した。
なお、王昭君 が匈奴に嫁いだのは、この劉細君の婚姻の七十余年後になる。 ともに漢王朝の対西域政策と軍略を物語るものである。



王莽(おうもう)

前43年~23年

前漢の元帝(10代皇帝)の皇后・王政君の甥で、成帝(11代皇帝)の母方の従弟に当たる。 外戚として力を持ち、やがて禅譲により皇帝として即位、
「新」を創設した
王莽は周代の礼の行われていた社会を理想と考え、儒教による国家制度の利用を推進した。 また、土地の国有令と奴婢の禁止例を出し、豪族を一気に解体させようとした。
しかし王莽にはそれを徹底させるだけの強大な権力はなく、法令は豪族の反対によりわずか4年で撤回された。

これらの失政に加え、前漢末から新の建国に至る一連の混乱に乗じて匈奴の侵入が激化したため、「新」は膨大な国費を費やし財政を困窮させることとなった。 困窮した農民は,漢の復興を求めて眉を赤く染め,華北一帯で反乱を起こした。
この
赤眉の乱を機に漢の一族の劉秀らが相次いで挙兵。 23年、更始帝と称した劉玄が長安に入城した混乱の中で王莽は杜呉という商人に殺され、新は滅亡した。