光武帝

前6〜57年

姓は劉、名は、字は文叔
高祖(劉邦)の九代目の孫。
王莽が漢を破って新をたて帝位についていたその末年、兵をおこして王莽の軍を破り、同族の劉玄を更始帝とした。更始帝は酒色にふけってやがて赤眉の賊に殺されたため、劉秀は諸将におされて帝位につき、後漢をおこし洛陽に都を置いた。
学問を重んじ、節操をたっとんで、後漢の清節の士の出現の基を築いた。



蔡倫

?〜121年

後漢中期の宦官で紙の発明者といわれてきた。
当時、書籍や文書には木や竹の札・高価な絹布を用いていたが、彼は麻屑・古布・魚網などを材料にして紙を作り,105年に和帝に献上した。これは「蔡侯紙」と称され天下に広まる。
蔡倫は、紙を作るにあたり、新たな材料を使い、製造方法を改良し紙の普及に大きな功績を残した。
和帝の時代、竇太后に嫌われた安帝の祖母・宋貴人を自殺に追い込んだ調査をしたのが彼であったが、竇太后の死後、安帝が自ら執政するようになると蔡倫は罪を問われて自殺した。