呂尚

中国史上で有名な軍師、張良諸葛孔明らの元祖。 日本では太公望呂尚、中国では姜子牙として通名している。
呂尚の出身は
姜族で、姜族というのはチベット系民族のこと。 姜族は、殷王朝時代に人身御供にされることもあり、このことを考えれば彼には殷を倒す十分な動機があったと思われる。
呂尚は
姫昌に周の軍師として迎えられ、その後度重なる献策により周の国力を高めた。 姫昌の死後は、息子である姫発(のちの武王)に仕え、対殷王朝打倒作戦をめぐらせる。 結果、周は牧野の戦いで殷の軍勢を破り、姫発は武王となり、周王朝をおこした。 周王朝誕生後も、呂尚は武王をよく補佐し、やがて斉の国に封じられ、この国の始祖となる。 斉が海に面していることを知った呂尚は、特産の塩や魚で経済を振興させていった。 やがて、斉は大国となり、のちに春秋戦国の覇者を生み出すことになる。


伯夷・叔斉 兄弟

伯夷と叔斉は、殷王朝の小国・孤竹の君主の子として生まれた。 彼らの変わり者ぶりは、父の死後発揮される。 父は弟である叔斉を後継者にしようとしていたが、叔斉は君主となることを拒否。兄の伯夷に君主の座を譲ろうとした。 兄・伯夷にすれば、自分が君主になることは、父の決定に背くことになるから、弟の申し出を受け入れることはできない。 しかたなく、伯夷は国外に出奔する。 それを知った弟の叔斉も、兄を追って国外に出てしまう。 君主候補の兄弟に見捨てられた孤竹国は、ほかの兄弟を君主に立てたという。
彼らの変わり者ぶりは、出奔後も発揮される。 伯夷と叔斉は、周の姫昌の評判を聞き、周に向かう。 周では姫昌が死去し、その息子・姫発が後を継いでいた。
姫発は、父の位牌を車に乗せ、殷討伐の軍勢を率いて進軍中だった。 その姿を見た兄弟は、姫発に向かって,
「父の喪中に戦をするのは、孝行といえるでしょうか。臣下の身でありながら、主君を討つのは仁といえるでしょうか。」
と言い放った。 この言動により姫発の臣下が切り捨てようとしたところ、太公望呂尚が止めたため、二人は命拾いすることとなる。 しかし、殷が倒れ周が樹立しても、伯夷と叔斉は”主殺しによって成立した”周王朝を認めようとはせず、
「周の粟は食べない」
といって、ワラビばかり食べて餓死した。   このようにして、彼らは自分なりの筋を命がけで通し、後世、孔子らによって「仁を成した」者として評価されることになった。


文王

?~前1057年

姓は、名は
周王朝の創始者である
武王の父にあたり、周の基盤を築いた人物。
文王は殷に仕えて、三公(特に重要な三人の諸侯)の地位にあり、父である季歴の死後、周の地を受け継ぎ、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。 彼は表面上は
紂王に恭順だったので,中国西部の支配をまかされて西伯に封ぜられた。そのため西伯昌とも称される。
姫昌は多くの人と会うのを好み、賢者をそばに置いた。 実際、
太公望呂尚をスカウトしたのも彼である。 彼は徳のある人物で、老人や子供を大切にしたといわれる。 紂王が考案したといわれる「炮烙の刑」をやめさせたのも彼である。 そのために、姫昌は自領の一部を差し出したともいう。
姫昌は実力もあれば人徳もある人物であり、諸侯の間でもめ事があれば仲裁を頼まれた。 姫昌が間に入れば、諸侯も納得して従ったという。 姫昌は、
崇侯虎の讒言にあって、都の南方に幽閉されたことがあるが、家臣団によって危機を救われる。 家臣らは、紂王に美女や名馬、財宝らを献上し、これに緩んだ紂王は、姫昌を釈放する。 釈放後、姫昌はさらに国力を充実させ、自領周辺を安全にする。 西方の異民族の犬戎と密須に大軍を送り、小国を滅ぼしたのもそのためである。
姫昌は遷都の翌年に死去するが、息子・武王(姫発)は、姫昌の敷いたレールを突き進めば良かった。
周王朝樹立のあと、姫昌は文王と諡され、天帝のもとで神になったとされる。



武王

?~前1043年

姓は、名は
周の
文王の次男。 周王朝を創設した王。
父の業を継いで、討殷のため盟津に兵を進め、八百の諸侯を集めたが、「天命はまだ殷から去っていない」と言って引き返した。
紂王の暴虐がますますつのってくると、再び兵を挙げて牧野に紂王の軍と決戦し、殷を滅ぼした。 鎬京(現在の西安付近)に都を定めて周王朝を建国し、弟・周公旦や功臣 ・呂尚召公セキらの助けを得て国の基礎を固め、紂王の子 ・武庚を殷の故地に封じ、管叔・蔡叔らにこれの監視をさせるとともに、諸侯の封建を行った。
しかしこの結果、武王の死後 、武庚や管叔、蔡叔の大反乱が生じたと伝えられる。



周公旦

姓は、名は
周の文王の四男で
武王の弟。 周王朝を建てた武王を、太公望召公セキなどとともに補佐した。
武王の死後は幼君・成王の後見役となり、制度を整え、周の天下を盤石なものとした。 実力的には王と並びながら、最後まで臣下の分を外さなかった姿勢が後に評価される。
孔子が常に理想像として仰いだのをはじめ,儒家たちから聖人と仰がれた。 儒家が模範とする「周礼」は,彼の手によって成ったとされている。


幽王

?~前771年

周王朝の第12代目皇帝で、在位は紀元前781年~紀元前771年。
幽王は政治に興味のない王で、愛人・
褒姒の色香に惑わされ、正室や太子を廃し、、褒姒を正室にしたものだから、正室の父・申侯(しんこう)は怒り狂った。 そして、異民族を味方に引き入れ、幽王を襲わせたのである。
幽王はすでに諸侯の信望を失っていたので、王が殺されても復讐に立ち上がるものはいなかった。 むしろ、申侯を支持し、申侯は元太子の宜臼(ぎきゅう)を平王として擁立し、都を東の洛邑へと移した。 これが東周の始まりである。



褒姒(ほうじ)

紀元前770年頃の、周(西周)の幽王の后。 絶世の美女だったといわれ、後に周を滅ぼす元凶となった女性。
褒姒は笑わない女性であり、幽王は彼女の笑顔を見たいと思い、あらゆる手を尽くして歓心を買うが、それでも褒姒が顔をほころばせることはなかった。 そんな中、緊急用の狼煙が誤って上がった。 諸侯は急いで幽王の元に駆けつけるが、事件は何も起きていない。 そのときの諸侯の呆気に取られた面を見て、初めて褒姒は笑った。 以来、褒姒の笑顔みたさに、幽王はわざと狼煙を上げさせ、諸侯を集めるようになったという。
こうなると、狼少年の話のようなものであり、狼煙が上がっても諸侯は反応しなくなる。 異民族・犬戎の進入を許したとき、あわてて狼煙を上げさせたものの、もはや諸侯は動かない。 幽王は殺され、褒姒は捕らえられた。